20 高根

※ 初出:『資料館だより』第31号(昭和59年3月31日発行)
 
1. 高根のおいたち
 下総国葛飾郡高根村は、海老川の支流で現在の河川名でいう、高根川をはさむ、台地と谷津田を含めた地域で、南は米ケ崎村・西は南金杉村・北は大穴村・古和釜村・小金下野牧・東は上飯山満村・下飯山満村の6ヶ村にかこまれています。
 高根の地名の起こりについて、船橋市史現代篇では、高根とは読んで字の如く、高丘の土地で、このあたりでは最も高い地域という意味で高根といったと書かれています。
 高根の地名の書かれた最古の文献は、船橋大神宮文書の応長元年(1311)の「下総国船橋御廚六ヶ郷田数之事」に「たかね郷」とあらわれており、近隣の村などの様子から考えてもかなりの古村であることは確かなようです。
 高根村は、昭和32年(1957)の調査で306町3反7畝6歩でした。江戸時代の村高ははじめの頃は253石5斗7升6合9才3才(宝永元年申春御改古高根村水帳による)で、幕末には550石位であったろうと船橋市史前篇はのべています。これは持添新田として小金下野牧内の開墾がゆるされ畑地が増加したことと、村内の山林の開拓によるものと思われます。この村を支配した旗本は小栗下総守で、徳川秀忠に仕え、江戸時代のはじめから支配していました。しかし新しく開墾された土地は幕府の直轄領となり代官支配地に組み入れられました。
 高根村は、明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の管轄となりのち葛飾県に属し、明治4年(1871)には印旛県に属し、同5年(1872)印旛県第1大区3小区に編入され、明治6年(1873)印旛県が廃され千葉県第12大区13小区に改められ、明治11年(1878)の郡区町村編成法で千葉県東葛飾郡に編入され、東夏見以下6ヶ村で一団をなしました。明治17年(1884)には南金杉村・二和村・高根村と村連合を組織しましたが、明治22年(1889)8ヶ村が合併し、八栄村高根となりました。
 昭和12年(1937)八栄村・船橋町・葛飾町・法典村・塚田村で船橋市を組織すると船橋市高根となり、昭和15年(1940)新町名設定で船橋市高根町となり、昭和38年(1963)には高根台団地の部分のみ高根台町1~5丁目に町名変更、さらに昭和48年(1973)高根台町1~5丁目を高根台1~7丁目及び高根町の一部を緑台に新住居表示。昭和54年(1979)には高根町の一部を新高根1~6丁目に新住居表示し、現在は江戸時代の村域と多少異なりますが、おおむね高根町・緑台・新高根・高根台となっています。
 
2. 高根の人口
 高根の面積は、高根町・緑台・新高根・高根台を含めて、昭和45年(1970)の調査で、4. 150km²でした。高根の草分けは6軒と伝え、平安時代にまでさかのぼるといわれていますが、明確ではありません。江戸時代の延宝年中(1673~1680)に51戸、寛政12年(1800)71戸368人、嘉永5年(1852)73戸526人、慶応3年(1867)77戸563人と記録されており、明治以後で人口の推移の知れるのは下表のとおりです。

 江戸時代以来農業中心の地域でしたが、昭和23年(1948)北部地域に新京成電鉄が開通、高根木戸駅が開業、昭和36年(1961)には字小金道・桜谷・土橋などに住宅公団により、中層住宅高根台団地がつくられ入居がはじまり、新たに高根公団駅が開業すると、その周辺の字木戸脇・田頭・勝田作・猪見塚あたりの宅地が開発され、商店街も生まれました。さらに昭和47年(1972)には字大堀・爪坪台・廻し水台一帯は船橋グリーンハイツが建設され、中高層住宅が立ちならびました。こうして北部地域の林・畑・水田はほとんど住宅地になっています。しかし南部の旧集落は住宅調整区域となっており、古いおもかげがまだのこっています。
 
3. 高根の寺社
 高根には寺が2つあります。観行院と高根寺で、観行院は蓮華山ともいい真言宗豊山派で昔は船橋五日市西福寺の末寺でした。創立年代は明らかでありませんがかなりの古寺と思われます。本尊は弥勒菩薩で60年に1回開帳が行われます。また高根寺は照誾山ともいい曹洞宗で、古くは小山寺といっていましたが、ここの領主となった高城山城守が、奥方の菩提を弔うためここに十一面観音を安置し、弘治元年(1555)堂塔を改修し、高根寺としたと伝えています。
 高根の鎮守は神明社で祭神は天照大神で毎年10月15日に例祭が行われます。また高根寺の前に秋葉神社があり祭神は火之迦具土神で、江戸時代の領主小栗下総守が武運長久を祈って建設したと伝えています。例祭は毎年10月24日です。両神社共船橋大神宮の宮司が兼務しています。このほかに熊野神社があります。
 
4. 高根の文化財
 高根の縄文時代の遺跡は、新高根に古和田台遺跡があり、昭和46年(1971)に発掘調査が行われ、縄文前期黒浜式・諸磯式・浮島式・中期五領ヶ台式・阿玉台式・加曽利E式などの遺物が発見されています。また高根町に唐沢台遺跡(加曽利E式)、上高根貝塚(後期堀之内式・加曽利B式)などの遺跡がありますが発掘調査は行われておりません。
 中世の遺跡としては、高根町字城高山に、高根城址という館址があり、これは天正年間(1573~1591)小金城主高城下野守胤辰の一族である高城山城守胤紹の居城であったと伝えられています。中世の遺物としては、元享4年(1324)、康暦元年(1379)、嘉吉2年(1442)の板碑があります。
 江戸時代の民間信仰にかかわる遺物は、貞享5年(1688)の二十六夜塔、元禄2年(1689)・元禄6年(1693)の念仏塔、元禄7年(1694)の十九夜像塔、宝永6年(1709)の天王宮、享保16年(1731)の六地蔵、享保17年(1732)の如意輪塔、宝暦7年(1757)の庚申塔、宝暦8年(1758)の山王大権現・熊野大権現、明和元年(1764)道六神、明和2年(1765)の面足神、寛政元年(1789)の八幡宮、文化5年(1808)の道標、文化6年(1809)の廻国塔、文化6年(1809)の妙正大明神、文政5年(1822)馬頭観音塔、文政7年(1824)の子安観音、天保6年(1835)の出羽三山塔、天保15年(1844)の弘法供養碑、文久2年(1862)の読誦塔、慶応元年(1865)の愛岩大権現などがあり、かなり種類の多い石造物が見られます。現在これらの石碑は、観行院・高根寺・神明社・秋葉神社などにおかれています。
 
5. 高根の旧家
 高根の草分けは6軒と伝えられていますが、江戸時代の寛政12年(1800)には71戸368人の人口があり、このあたりでは大きい集落です。人々は字上高根・宮脇・塩谷津・西前・西ノ庭・城高山・塙向あたりに旧家が散在しています。ちなみに旧家は、吉野・藤代・吉田・小川・藤城・岩崎・金子・野瀬・桜井・片岡・仲村・石井の姓をもつ家が多く、江戸時代の名主は藤右衛門家(吉野)、組頭は忠兵衛家(藤代)でした。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 社会科学習指導資料 2 船橋市教育研究所 昭和57年