※ 丸括弧内の地名および「開拓」「開墾」の使い分けは初出当時のもの
1. 二和のおいたち
二和は、江戸時代には小金五牧の一つである下野牧の一部で、標高26~29mの比較的平坦な台地で、中央部に小さな水路(現在の二和川)をもつだけで、一面灌木と雑草の繁る荒地でした。南は南金杉村、西は鎌ケ谷村(現鎌ケ谷市)、北と東は三咲村にかこまれていた地域です。
二和の地名の起こりは、明治2年(1869)下総小金牧・佐倉牧に開拓の鍬がはいり、新しく村ができますが、このとき縁起がよくしかも開拓の順序のわかるような名をつけることになり、開拓のはじまった順に、初富(鎌ケ谷市)・二和(船橋市)・三咲(船橋市)・豊四季(柏市)・五香(松戸市)・六実(松戸市)・七栄(富里村)・八街(八街町)・九美上(佐原市)・十倉(富里村)・十余一(白井町)・十余二(柏市)・十余三(成田市大栄町)と新しい村名がきまりました。すなわち二和とは二番目に開墾にはいったところという意味のわけです。二和は明治2年(1869)11月11日にはじめて東京からの移民がはいりました。
二和村は、昭和32年(1957)の調査で211町2反2畝と記録され、明治6年(1873)千葉県第12大区13小区に編入され、明治11年(1878)には千葉県東葛飾郡に編入され三咲村と集合し、二和三咲村となりました。明治17年(1884)には、高根村、金杉村、三咲村と村連合を組織しましたが、明治22年(1889)には米ケ崎村・東夏見村・西夏見村・高根村・七熊村・金杉村・三咲村と合併して八栄村を組織し、八栄村二和となりました。
昭和12年(1937)八栄村・船橋町・葛飾町・法典村・塚田村で船橋市を組織すると船橋市二和となり、昭和15年(1940)新町名設定で船橋市二和町となりました。そして昭和56年(1981)に新住居表示により船橋市二和東1丁目~6丁目・二和西1丁目~6丁目となり現在にいたっていますが、昭和56年の新住居表示で町域は若干の変化があります。
2. 二和の人口
二和村の面積は、昭和45年(1970)の調査で、2.597km²で、明治2年(1869)11月11日に55戸201人がはじめて入植し、11月21日に87戸296人、11月23日に17戸48人の計159戸545人によって開拓がはじまったと、三井文庫史料「二和農舎人員帳」に記されています。それ以後で人口の動態の知れるのは下表のとおりです。
明治2年東京移民が行われ、開拓がはじまりましたが、明治5年には急激に人口が減少しています。その後の人口の動態は明らかでありませんが、およそ55年後の昭和12年になってようやく入植当時の人口を回復します。以来人口は次第に増加しますが、昭和23年(1948)新京成電車が開通、昭和25年~30年にかけて国家公務員の官舎に入居がはじまり、二和向台駅周辺の字向台に国鉄自治会・事業団住宅・市営住宅などもつくられ住宅地が広がりました。それとともに字八木ケ谷道・沖野初富道・平台などにも広がり、現在にはこれら地域が住宅密集地となり、大きな町を形成しています。また昭和57年に入居のはじまった二和グリーンハイツは、字五本松にできました。
3. 二和の寺社
二和には寺はありません。墓地は字土手際と字元林の2ヶ所に共同墓地があります。現在の旧家の多くは金蔵寺の檀家となっています。
二和の鎮守は星影神社ですが、二和の開拓成功を祈って当時の開墾請負人星野清左衛門が稲荷社を祀ったのがはじまりと伝えています。創立は明治2年(1869)とも明治5年(1872)ともいわれます(千葉県文書館所蔵『千葉県神社明細帳』では明治3年―郷土資料館補注)。毎月1日と15日には老人達がここでお籠りを行い、例祭は毎年10月18・19・20日に行われます。祭神は稲荷神です。
4. 二和の文化財
二和には、西の台遺跡があり、先土器時代・縄文時代早期・前期・中期、古墳時代前期の遺物が発見され、住居址や土が発掘されています。
江戸時代のものは、勢子堤と呼ばれる堤が各所に見られましたが、現在では二和小学校脇に残っています。小金下野牧であった頃野馬を三咲の大込に追込むためにつくられたもので、おそらく寛政の頃につくられたものと思われます。
勢子堤
明治以後のもので、民間信仰にかかわる石碑は馬頭観音・庚申塔・子安観音などがあります。また開拓に関するものは、二和開墾百年記念碑(昭和43年)・二和三咲畑かん竣工記念碑(昭和33年)が星影神社境内にあります。無名様とよばれている「無縁法界万霊供養塔」(明治34年)は、明治2年入植し、死亡した無縁仏を地元の有志で供養した碑で、字土手際の墓地にあります。二和開墾管理者「萩原謹平の墓」(明治32年星野家によって建立された)は、字元林の墓地にあり、他に、小池家の敷地の成田山新栄講碑も知られています。
(※令和2年補注...原文を文意がつながるように修正した)
5. 二和の開墾の歴史
明治2年11月11日、開墾会社に応募した人々がはじめて二和におとずれました。農舎は滝不動尊から二和火の見にかけての道の両側に24棟あり、1棟は6軒長屋でした。農舎は土間で便所と風呂は外で共同使用でした。開墾作業は、鎌・はばた(かずさ)・唐鍬・万能鍬などで草刈り、根掘りなどを行いましたが、わずかしか開墾できず、明治3年7月までで2反歩程度しか耕せなかったようです。耕した土地には種や苗を植えましたが土壌は赤土で肥料分がなく、その上土が軽いため苗が枯れたり、種がとばされたりで収穫はほとんどなかったといいます。このため開墾をあきらめ土地を離れた人も多く出ました。このようなわけで開墾はあまりはかどらず明治5年5月開墾会社は解散し、開墾は個人の手にまかされます。明治6年地租改正となりますが、移民した人は1戸5反5畝の土地が与えられ、残りの土地は出資金に応じて開墾会社社員が分けました。こうして土地の権利がはっきりしますと、土地を売り東京にもどった人の土地を買った人や社員の土地の小作となった人も住みつき、これらの人々の子孫が旧家としてのこっています。人々は大根・さつまいも・麦などを主につくっていましたが、肥料や水が少なく大変苦労したそうです。大正時代頃になるとようやく落ち着き、他の農村とあまり変わらなくなったようです。第二次世界大戦後農地改革がなされ、ほとんど自作農になります。昭和30年の畑かん用水の完成は水の苦労を解消させ、時代の要請と相まって穀類中心の農業から蔬菜中心の近郊農業に転換します。今日盛んである梨は昭和35年頃からはじまりました。
畑かんポンプ小屋
(参考文献)
千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
二和三咲の歴史 天下井恵 御滝中学校 昭和58年