22 三咲

※ 初出:『資料館だより』第33号(昭和59年12月1日発行)
※ 「開拓」「開墾」の使い分けは初出当時のもの
 
1. 三咲のおいたち
 三咲は、江戸時代には小金五牧の一つである下野牧の一部で、標高26~29mの比較的平坦な台地であり、一面灌木と雑草の繁る荒地でした。南は高根村、西は南金杉村、二和村、北は八木ケ谷村・神保新田、東は楠ケ山村・大穴村にかこまれた地域です。
 三咲の地名の起こりは、明治2年(1869)下総小金牧・佐倉牧の開拓の鍬がはいり新しい村をつくりますが、この時縁起がよくしかも開拓の順序のわかるような名をつけることになり、三番目に開拓がはじまったので三咲と名づけられたそうです。三咲は、明治2年(1869)11月26日に入植がはじまりました。
 三咲村は、昭和32年(1957)の調査で263町6反8畝とされ、明治6年(1873)千葉県第12大区13小区に編入され、明治11年(1878)には千葉県東葛飾郡に編入され二和村と集合し、二和三咲村となりました。明治17年(1884)には、高根・金杉・二和三咲で村連合を組織し、明治22年(1889)には、米ケ崎・東夏見・西夏見・高根・七熊・金杉・二和と合併して八栄村を組織し、八栄村三咲となりました。
 昭和12年(1937)八栄村・船橋町・葛飾町・法典村・塚田村が合併し船橋市が組織されると、船橋市三咲となり、昭和15年(1940)に新町名設定で船橋市三咲町となり、二宮町が合併した昭和28年(1953)には、二宮町内にあった飛地七林が三咲町から分離し、昭和30年(1955)には七林町となりました。七林が三咲の飛地となったのは、明治初年三咲の開墾請負人西村郡司が、官からこの地をあずかり、開墾を行ったためということです。
 昭和56年(1981)新住居表示により、船橋市咲が丘1丁目~4丁目、みやぎ台1丁目~3丁目、三咲1丁目~5丁目、昭和57年(1982)南三咲1丁目~4丁目と三咲町となり現在にいたっていますが、昭和56・57年の新住居表示で村域が整理され、旧村の範囲とは若干のちがいがあります。
 
2. 三咲の人口
 三咲村の面積は、昭和45年(1970)の調査で、12.774km²(七林は含まず)で、明治2年(1869)11月26日に73戸283人、12月2日に90戸312人の計163戸595人が入植して開拓をはじめたと三井文庫史料「三咲農舎人員帳」に記されています。それ以後で人口の動態の知れるのは下表のとおりです。

 明治2年東京移民が行われ開拓がはじまりましたが、3年後の明治5年には、およそ3分の1の人口が減少しています。しかし周辺農村から新たに入植したりしておよそ50年後には入植当初の人口を回復したようです。以後人口は次第に増加し、昭和23年(1948)に新京成電鉄が開通、昭和30年頃から宅地がつくられはじめ、昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて宅地造成が活発になりこれが現在でも続いています。現在の咲が丘(字大込・八木ケ谷前)、みやぎ台(字神保新田)、三咲町(字東道東側)、三咲二丁目(字土手外)、南三咲二・三丁目(字滝前東・滝前・滝前西)あたりに住宅が密集しています。
 
3. 三咲の寺社
 三咲には古い寺はありません。昭和38年(1963)に長野県中野市から移転した浄土真宗本願寺派の文珠山常圓寺が建立されています。また共同墓地は1ヶ所で字土手外にあります。
 三咲の鎮守は、三咲神社ですがこれは三咲の開拓成功を祈って開墾請負人であった西村郡司が稲荷社を祀ったのがはじまりと伝えています。創立は明治2年(千葉県文書館所蔵『千葉県神社明細帳』では明治3年―郷土資料館補注)といわれ、ある大名の下屋敷にあった稲荷明神をここに遷してきたものといわれています。祭礼は毎年10月15日に行われています。また、南三咲には仙元宮があり、南三咲地区の鎮守となっています。本殿は昭和43年(1968)に新築されました。この地は小金下野牧の頃から塚となっており、鹿見塚とよばれ、享保年間の御鹿狩の際に将軍の御立場として作られたといわれています。大込(咲が丘)には稲荷神社があります。この神社は、大込の草分けの家が移転するさい、屋敷内にまつっていたものが発展したもので、地元の人々が現在地に移し、あわせて豊川稲荷を勧請したと伝えています。大込地区は、鎌ケ谷村に近いため、稲荷神社の祭礼は、鎌ケ谷の鎮守八幡神社にあわせて毎年10月14・15日に行うそうです。

三咲神社


仙元宮周辺

4. 三咲の文化財
 三咲には大込遺跡があり、縄文時代中期の土器片と石鏃と古墳時代と思われる土師器が採集されています。中世にかかわるものは今のところ認められていません。
 江戸時代にかかわるものは大込地区に「捕込」とよばれる囲い土手があります。これは小金下野牧であったころ、下野牧の野馬をここに追い込み選別したり、その年の出生数を調べたり、焼印を押したりし、これを「野馬捕り」といいました。野馬捕りは毎年日をきめて近隣の農民達を動員し、牧士を中心に馬を捕込に追い込む非常に雄大な行事であり、このときは近在の人々も見物におとずれ非常ににぎやかであったそうです。このことは江戸時代の書物である「成田名所図会」「木曾名所図会」などに描かれています。また、この捕込を中心に、勢子堤とよばれる土手が各所にのこっていましたが、現在では断片的にのこっている程度です。このほかには近隣農村の人々によってつくられた、庚申塚や念仏塚とよばれる塚が見られましたが、現在では南三咲の鹿見塚の他わずかに見られる程度です。
 明治以後の民間信仰にかかわる石碑は、明治8年(1875)の弁財天、明治13年(1880)の子安塔、明治33年(1900)の庚申塔などが主なものです。また開墾に関するものは、明治14年(1881)に建立された鳥居・水盤・記念碑、南三咲開墾百年記念碑(昭和44年)、三咲開墾百年記念碑(昭和45年)などが見られます。
 
5. 飛地七林
 七林は江戸時代には、船山御林とか木戸口御林とよばれ徳川幕府領でしたが、ここには人は住んでいませんでした。
 明治初年三咲の開墾請負人西村郡司に、明治政府からこの地が払い下げられ、人々が移住し開墾したために三咲の飛地となったというわけです。明治10年頃には、10戸位あったといいますが、七林町となった昭和28年(1953)には42世帯225人が住んでいます。以後次第に増加し、現在では509世帯1706人になっています。ちなみに、昭和33年(1958)の調査で19町6反4畝15歩、昭和45年の測量では0. 237km²の面積であったそうです。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 二和三咲の歴史 天下井恵 御滝中学校 昭和58年