※ 地名は初出当時のもの
1. 八木が谷のおいたち
下総国千葉郡八木ケ谷村は、印旛沼に注ぐ神崎川の一支流である境川の上流で、北に大神保・印旛郡白井町(※令和2年時点では白井市―郷土資料館補注)、西は鎌ケ谷市、東は神保町、みやぎ台、南は咲が丘にかこまれた地域です
八木が谷の地名の起こりについては、まだはっきりわかっていませんが、地元ではむかし八木ヶ谷式部胤宣という武将がいたのでこの地名となったといわれています。八木が谷の地名の出てくるのは、松戸市の本土寺の過去帳に、明応8年(1499)と推定される記事に「八木ヶ谷兵部郷良宗」、「大永六年八木谷ニテ」とあり(大永6年は1526年―郷土資料館補注)、近隣の様子などから考えてみても、中世には人々が居住している古村であることは確かなようです。また江戸時代のはじめ頃は、近隣の坪井・古和釜・大穴・楠ケ山などと共に、下総国葛飾郡臼井領二宮荘西ノ郷とよばれていましたが、江戸時代の中葉(元禄時代か?)に下総国千葉郡に編入され、幕末まで続きました。
八木ケ谷村は、明治22年(1889)の調査で、田15町5反1畝2歩、畑15町7反9畝21歩でしたが江戸時代の村高(元禄13年検地帳)は79石6斗4升、慶応3年(1867)には99石2斗7升1合となっているので切添新田としてこの間に開墾された場所のあったことがわかります。江戸時代にこの村を支配した旗本は、長井氏と市川氏でいずれももと甲斐武田氏の家臣で後に徳川氏に仕えた家柄ですが、切添新田の分37石2斗3升1合は代官支配地となっていました。
明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の管轄となりのちに葛飾県となり、明治4年(1871)に印播県に属し、明治6年(1873)千葉県第11大区5小区、さらに明治8年(1875)第11大区11小区に改められました。
明治11年(1878)郡区町村編成法施行のさいには、千葉県千葉郡に編入され、神保新田・大神保と共に村連合を組織、同17年(1884)戸長役場所轄区域更定で、豊富村の母体となる12ヶ村が一括して同一戸長役場の所轄に属しました。明治22年(1889)には、八木ケ谷、楠ケ山、大穴、坪井、神保神田・大神保・小室・小野田・車方・行々林が合併し、千葉郡豊富村となり、豊富村八木ケ谷となりました。昭和29年(1954)豊富村が船橋市に合併し船橋市八木ケ谷に、同30年には町名設定で船橋市八木が谷町となり、昭和56年(1981)の新住居表示では、八木が谷1~5丁目、八木が谷町、咲が丘2~4丁目、みやぎ台1~4丁目、高野台1~4丁目となりました。こうして現在は昔の村域とは多少ちがっています。
2. 八木が谷の人口
八木が谷の面積は、昭和45年(1970)の調査で2.258km²でしたが、現在は、八木が谷、八木が谷町、高野台、咲が丘、みやぎ台などに町が分割されているので昔の面積とは若干異なります。八木が谷の草分けははっきりしませんが、長福寺のある八木が谷5丁目に旧家が集中しています。戸数と人口は古い時代の記録がなくわかりませんが、慶応2年(1866)には、人家18軒、人口82人であったそうです。明治以後で人口の推移の知れるのは下表のとおりです。
八木が谷は、江戸時代以来農業中心の地域でしたが、昭和36年(1961)高根台団地がつくられて入居がはじまると、新京成電鉄の沿線地域が住宅地として注目されはじめ、二和向台駅・三咲駅に近い、咲が丘、みやぎ台あたりが開発され、新興住宅地となり、人口の急増がはじまりました。そして不動産会社による大規模開発が行われ、現在見られるような景観となりました。
3. 八木が谷の寺社
八木が谷の寺は、帝龍山長福寺で天台宗叡山派です。昔は印旛郡栄治村小倉(現印西町)の泉倉寺の末寺であったそうです。創立の年代は明らかでありませんが相当の古寺のようです。本尊は不動尊で慈覚大師の作と伝え、33年に1回開帳されるそうです。境内には弥陀堂があります。
八木が谷の鎮守は、王子神社で祭神は伊装冊尊・誉田別命・日本武尊とされ、毎年7月27日・10月15日に祭例が行われています。古くはこれを石尊社と呼んでいましたが、江戸時代八木ケ谷村を知行した旗本長井氏は王子神社を石尊社に併祭し、市川氏は新たに白旗神社を創建しておりましたが明治44年(1911)に、二つの神社を合祀して社殿を石尊社の旧地に移したため、7月27日は石尊の祭り、10月15日は村の鎮守祭としたということです。
王子神社 長福寺鐘楼
4. 八木が谷の文化財
八木が谷には、縄文時代・弥生時代の遺跡はまだみつかっていません。古墳時代のものは、二ッ塚遺跡で前期五領式・中期和泉式土器が採集されており、柏上遺跡では和泉式土器を伴う住居址が2軒発掘されています。
中世にかかわるものは、八木ケ谷城址があり、現在も土塁の一部がのこっており、多郭式の城址と考えられています。またこの附近から文明3年(1471)と明応4年(1495)の種子板碑、文亀4年(1504)の十三仏板碑が発見され、まだ板碑が埋蔵されているようです。八木が谷北小前の林のなかに五輪塔の一部があり、これも中世のものと考えられています。
近世以後の民間信仰にかかわる石碑は、市内最古と思われる元禄2年(1689)の庚申塔、宝暦10年(1760)と安永2年(1773)の庚申塔、延享3年(1746)の駒形明神、明和3年(1766)の八日講碑(大日如来)、享和3年(1803)の妙見碑、文政6年(1823)の三山講碑、文政10年(1827)の馬頭観音などが主なもので、このほかには、幕末から明治にかけて活躍した、この地の指導者で俳人である升月亭居山の筆子塚が長福寺の墓地にあります。
長福寺墓地 石碑
5. 八木が谷の旧家
八木が谷の草分けはわかりませんが、幕末の慶応2年(1866)には18軒の家があったといいます。地元にのこる旧家の姓は、湯浅・石井・福田・岩井・岩浅・鈴木・綱島・便などがあります。ちなみに江戸時代名主をつとめた家は、湯浅家と福田家であったそうです。
(参考文献)
千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
豊富村誌 船橋市史談会復刻 昭和44年
(講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年