※ 地名は初出当時のもの
1. 大神保のおいたち
下総国千葉郡大神保村は、印旛沼に注ぐ神崎川の一支流である境川の流域にあり、標高23~26mの下総台地上に集落と畑地を形成し、13mの低湿地に水田を営んでいます。北は印旛郡白井町、東は小室・小野田・南は神保新田、西は八木ケ谷にかこまれた地域です。
大神保の地名の起こりについてははっきりとはわかりませんが、昔の神保郷の親村だったためとか、神保郷の最奥の村だったからこうよばれたと考えられています。大神保の地名がでてくるのは文禄3年(1594)中山法華経寺文書の「四院主連署回状」に「神保大神保本立院、法持坊、円教房」と書かれ、中世の頃にはすでに人々が居住していた古村であったことがわかります。
江戸時代のはじめは下総国葛飾郡に属していましたが、元禄(1688~1703)の頃下総国千葉郡に編入され、幕末まで続きました。江戸時代にこの地を支配した旗本は大田氏です。大田氏は三河の出で、代々徳川家に仕えた家柄だそうです。
明治元年(1868)この地は知県事佐々布貞之丞の管轄となり、のちに葛飾県となり、明治4年(1871)には印旛県に属し、明治6年(1873)千葉県第11大区5小区、明治8年(1875)第11大区11小区に改められました。
明治11年(1878)郡区町村編成法施行のさいには、千葉県千葉郡に編入され、神保新田、八木ケ谷と共に村連合を組織、同17年(1884)戸長役場所轄区域更定で豊富村の母体となる12ヶ村がまとまり同一戸長役場の所轄に属しました。明治22年(1889)には、大神保・八木ケ谷・楠ケ山・古和釜・大穴・坪井・神保新田・小室・小野田・車方・行々林が合併し、千葉郡豊富村を結成し、豊富村大神保となりました。この時の調査で大神保は、田20町2反4畝25歩、畑19町9反1畝16歩、宅地3町7畝7歩と記録されています。ちなみに江戸時代の村高は55石2斗5合でした。
昭和29年(1954)豊富村は船橋市に合併し、船橋市大神保となり、同30年(1955)には町名設定で船橋市大神保町となり現在にいたっています。
境川にかかる富ケ谷橋
2. 大神保の人口
大神保の面積は、昭和45年(1970)の調査で、2. 085km²で、慶長7年(1602)の水帳によると16戸の家があったそうです。また延宝4年(1676)の庚申石塔の銘文にも16戸の屋号が書かれています。慶応2年(1866)には人家が19戸、人口177人とされ、明治以後で人口の推移が知れるのは下表の通りです。
大神保は江戸時代以来農業中心の地域で、人口の推移にも見られるようにあまり人口の変化はありません。また昔から分家をだしたり、分地をしたりしないという約束が村全体で長く守られたため人家の増加もあまりみられません。またこの地区全体は市街化調整区域となっていることもあり、開発の波もきておらず、現在でも昔ながらのたたずまいを残す船橋でも数少ない地域の一つです。
3. 大神保の寺社
大神保の寺は神保山西福寺で日蓮宗です。中山法華経寺の末寺だそうです。本尊は釋迦牟尼仏です。延慶元年(1308)に創立されたと伝え、はじめは一向宗の寺でしたが、およそ300年後に日蓮宗に改宗したと伝えています。しかし文禄3年(1594)の「法華経寺四院主連署回状」に出てくる本立院・法持坊・円教房との関係については今後の課題といえるでしょう。また地元では昔円福寺という寺とまとめたという話ものこっています。なお境内には祖師堂があります。
大神保の鎮守は白幡神社で、祭神は誉田別尊です。毎年1月20日におびしゃ、10月20日に例祭が行われています。この神社は延宝年間(1673~1680)に創立したとされ、元禄7年(1694)に円福寺が廃された跡に神社を移したとも伝えていますがはっきりわかりません。
4. 大神保の文化財
大神保には、字田向に縄文時代後期の堀之内式加曽利B式土器が採集され、田向遺跡と命名されましたが、近年墓地の造成で湮減したということです。また字供養塚には、小さな塚11基があり供養塚遺跡とよばれています。神保町に通じる道ぞいの梨畑にありますが、地元には伝承がなく発掘調査もおこなわれていません。おそらく中世~近世にかけてつくられたのでしょう。
西福寺には、木造毘沙門天立像が安置され、市の指定有形文化財となっています。寄木造・彩色仕上げ、像高60cmの仏像で、江戸時代初期のものと考えられています。また、西福寺には板碑が保存され、弘安9年(1286)銘のものが市の指定文化財になっています。このほかに永正7年(1510)銘、応永20年(1413)銘のものがあり、年代不明のものも4点あります。いずれも元禄7年に廃された円福寺跡を開墾したときに発見され、西福寺に納められたということです。
江戸時代の民間信仰にかかわる石碑は、延宝4年(1676)、明和2年(1765)、文政11年(1826)、天保8年(1837)の庚申塔、明和5年(1768)の疱瘡神、天明2年(1782)の釈迦如来、文化3年(1806)の道祖神、文政2年(1819)の二十三夜塔、天保2年(1831)の日蓮上人供養塔、安政6年(1859)日蓮宗題目塔、明治9年(1876)の聖徳太子供養塔、大正元年(1912)の水難供養塔などが主なものです。
庚申塔群
また船橋県民の森入口に昭和57年(1982)に建立された地蔵像がありますが、豊富地区内で交通事故が多く発生したため豊富地区連合町会で死亡者の供養と事故の発生のなくなることを祈って建立したものだそうです。
5. 大神保の旧家
大神保の草分けについてははっきりわかりません。慶長7年(1602)の記録では16戸あったとされています。地元にのこる旧家の姓は、石井・押田・川北・泉對・中村・中山・松丸・渡辺などがあり、ちなみに江戸時代に名主をつとめた家は泉對家中山家の他数家であったそうです。
(参考文献)
千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
大神保の民家 船橋市教育委員会 昭和51年
船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年