25 小野田

※ 初出:『資料館だより』第36号(昭和60年12月1日発行)
 
1. 小野田のおいたち
 下総国千葉郡小野田村は、印旛沼に注ぐ神崎川の支流と境川と小野田川の流域にあり、標高20~22mの台地と3~6mの沖積地となっています。北は小室、西は大神保、東は小池(現八千代市)、南は車方・豊富町にかこまれています。
 小野田の地名の起こりについては、伝承も記録もなくわかっておりませんが、平安時代の末頃には臼井荘に属していたと考えられています。中世には神保郷に属していたと考えられます。
 江戸時代のはじめは下総国葛飾郡に属していましたが、小野田村を支配した佐橋氏の系譜の吉次の条に「下総国葛飾郡小野田村の儀、元禄十二己卯年御国絵図改の節、郷村御帳に千葉郡と相直り候につき、以来郷村帳差出候節、千葉郡と相認め候」という記事があり、元禄12年(1699)から下総国千葉郡となり、幕末まで続いたと考えられます。江戸時代にこの地を支配した旗本は、佐橋氏、三橋氏、権田氏で、特に佐橋氏は江戸時代のはじめ頃からこの地を支配していたようです。
 明治元年(1868)この地は知県事佐々布貞之丞の管理となり、のち葛飾県となり、明治4年(1871)には印旛県に属し、明治6年(1873)千葉県第11大区5小区、明治8年(1875)第11大区11小区に改められました。
 明治11年(1878)郡区町村編成法施行のさい千葉県千葉郡に編入され、小室・車方・行々林と共に村連合を組織、同17年(1884)戸長役場所轄区域更定で豊富村の母体となる12ヶ村がまとまり、同一戸長役場の所轄に属しました。明治22年(1889)には、小室・小野田・車方・行々林・神保新田・坪井・大穴・楠ケ山・古和釜・大神保・八木ケ谷が合併し、千葉県豊富村が結成され豊富村小野田となりました。この時の調査で小野田に、田24町5反9畝28歩、畑19町2畝6歩、宅地2町8反9畝21歩、その他山林原野などを加えて合計68町7畝16歩でした。ちなみに江戸時代の村高は88石1斗9升8合でした。
 昭和29年(1954)豊富村は船橋市小野田となり同30年(1955)には町名設定で、船橋市小野田町となり現在にいたっています。
 
2. 小野田の人口
 小野田の面積は、昭和45年(1970)の調査で、1.677km²で、慶応2年(1866)には29戸人口231人であったそうです。明治以後で人口の推移の知れるのは下表の通りです。

 小野田は、江戸時代以来農業中心の地域で、人口の推移にみられるように、あまり人口の変化はみられません。また地区全体は市街化調整区域となっていることもあり、宅地開発の波もまだきておらず、昔ながらのたたずまいがのこっています。昭和48年(1973)には国道16号線が開通し、この地区は二分されましたが、東側の集落は農村の風景をのこし、西側の山林は切り開かれ、北部工業団地や梨畑が分布しています。
 
3. 小野田の寺社
 小野田の寺は、玉井山光明寺で日蓮宗です。中山法華経寺の末寺だったそうです。本尊は釋迦牟尼仏で、大同2年(807)創立と伝え、はじめは真言宗の寺でしたが、日学という法華僧がおとずれた時から日蓮宗に改宗したと伝えています。したがって光明寺は日学が開基僧となっています。また中山法華経寺8代の僧日院がここに隠居したとき祖師像を持ってきて、もともとあった萩堂にこれを安置し祖師堂としたということです。萩堂は光明寺より少し離れたところにありますが、この堂は飛騨の工匠がきて萩の木を床柱にして創建したものと伝え、明治13年(1880)、この堂再建の時、柱を輪切りにし、それに曼荼羅を書き村人に配ったそうです。

光明寺 本堂


萩堂

 小野田の鎮守は安房主神社で光明寺門前にあり祭神は安房神です。この神社はこの地の旧家角頼太郎左衛門が生まれ故郷の小池村から氏神として祀ったのがはじめで、自ら神主となっていましたが、正徳年中(1711~1715)に神社と社地を光明寺に寄進したためそれ以来光明寺が別当となったそうです。明治の神仏分離令で寺との関係はなくなりました。毎年10月12日が鎮守祭です。
 この地に、足尾神社、諏訪神社などの祠がありますが、これらの由来については今のところわかっていません。
 
4. 小野田の文化財
 小野田には、字猿畑に縄文中期加曽利E式及び古墳時代後期鬼高式土器が採集され小野田遺跡と命名されています。また、字台には縄文中期加曽利E式、後期称名寺式、古墳時代前期五領式土器が採集された台遺跡がありますが、まだ発掘調査は行われていません。
 中世の遺跡は、字台に小野田城址があり、ここには当時の土塁の一部がのこっています。雑郭式のものと考えられますが、「むかしここに城があった」と伝える程度で調査も研究も今後の課題です。中世の遺物は、文和2年(1353)銘の板碑のほか、年号のわからない板碑5面があります。
 江戸時代以後の民間信仰にかかわるものは、元禄6年(1693)、元文5年(1740)、安永2年(1773)、文化13年(1816)、文政5年(1822)、文政11年(1828)、天保10年(1839)、嘉永元年(1848)、文久2年(1862)の庚申塔、安永5年(1776)の一千ヶ寺巡拝塔、天明元年(1781)の日蓮上人供養塔、天明5年(1785)の題目塔、寛政2年(1790)の妙正明神、寛政4年(1792)の二十三夜塔、文政9年(1826)馬頭観音、明治7年(1874)の道祖神、明治36(1903)の弁財天、明治42年(1909)の水難供養塔が主なものです。

庚申塔群

5. 小野田の旧家
 小野田はいまのところ古文書をはじめ、古い文献がなく、草分けについてははっきりわかりません。慶応2年(1866)には29戸あったとされています。地元にのこる旧家の姓は、積田、松丸、角頼、玉井、渡辺、武藤などで、江戸時代に名主をつとめた家は角頼善兵衛家であったそうです。
 
(参考文献)
 千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年