26 小室

※ 初出:『資料館だより』第37号(昭和61年3月15日発行)
※ 地名は初出当時のもの
 
1. 小室のおいたち
 下総国千葉郡小室村は、印旛沼に注ぐ神崎川と支流の境川の流域にあり、北側に神崎川の広い沖積地を望む地域にあります。標高19m~21mの台地と、6m~7m程度の沖積地が存在します。北は印旛郡神々廻村(白井町)、東は印旛郡清戸村(白井町)、南は小野田村、神保新田(現在は大神保町)、西は印旛郡復村(白井町)にかこまれています。
 小室の地名の起こりについては、はっきりわかりませんが、「ムロ」は元来山間の谷間の低い土地のことをいうので、このことからこの名となったと考えるむきがあります。小室の地名がはじめてあらわれるのは、現在のところ元徳3年(1331)千葉胤貞が法華寺(中山法華経寺の前身)の日裕という僧に土地をゆずった文書(中山法華経寺文書)のなかに「下総国臼井庄神保郷 小牟呂村」とあり、近隣の様子などから考えてみても、中世には人々が居住している古村であったことがわかります。
 小室村は、明治22年(1889)の調査で、水田39町8反8畝8歩、畑地23町6反8畝5歩と記録され、江戸時代の村高は104石8斗9升9合でした。
 江戸時代にこの村を支配した旗本は、朝岡氏と内藤氏でいつごろからこの地を支配したのかはわかりませんが、いずれも徳川家譜代の家臣であったそうです。この支配は幕末まで続きました。明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の管轄となり、のち葛飾県となり、明治4年(1871)に印旛県に属し、明治6年(1873)千葉県第11大区5小区、明治8年(1875)第11大区11小区に改められました。
 明治11年(1878)郡区町村編成法施行のさいには、千葉県千葉郡に編入され、小野田・車方・行々林と共に村連合を組織し、同17年(1884)戸長役場所轄区域更定で豊富村の母体となる12ヶ村が一括して同一戸長役場の所轄に属しました。明治22年(1889)には、八木ケ谷・楠ケ山・大穴・坪井・神保新田・大神保・小室・小野田・車方・行々林が合併し、千葉郡豊富村となり、この地は豊富村小室となりました。
 昭和29年(1954)豊富村が船橋市に合併して、船橋市小室に、同30年(1955)には町名設定で船橋市小室町となり現在にいたっています。
 
2. 小室の人口
 小室の面積は、昭和45年(1970)の調査で1. 962km²でした。小室の草分けははっきりわかりませんが、慶応2年(1866)には人家38戸人口273人であったそうです。明治以後で人口の推移が知れるのは下表のとおりです。

 小室は、江戸時代以来農業中心の地域でしたが昭和42年(1967)千葉ニュータウンの用地の買収がはじまります。この時小室の人々は水田2町8反、畑16町、梨畑2町3反、山林44町の計65町余を提供しました。そして新しい宅地の造成がはじまり、公共施設・鉄道・道路などの準備をへて、昭和54年(1979)に完成し入居がはじまりました。
 こうして現在は、古い村落は台地の端に、新興住宅は台地上に立ちならぶようになり、船橋市域のなかでは新旧混在する地区に変容したわけです。
 
3. 小室の寺社
 小室の寺は、立法山本覚寺で日蓮宗です。もと中山法華経寺の末寺でした。創立の時期ははっきりわかりませんが、日蓮宗の老僧日忍(正和5年―1316―に死去したと伝える)が開基したということです。本尊は釈迦牟尼仏で、本堂には三十番神がならべられています。
 小室の鎮守は、八幡神社で祭神は応神天皇とされ、明治44年(1911)3月11日村内にあった厳島神社をここに合祀しました。毎年1月15日におびしゃ、9月15日に例祭が行われます。昔は小室・小野田・小池(八千代市)三村の鎮守であったとされ、「八幡宮御神体金銅釈迦牟尼仏御長四寸三分、右氏子当村小野田小池三村也別而小野田玉之井八郎積田与五郎角頼太郎左衛門渡辺氏等寛永三丙寅年二月吉日」と墨書された古い棟札が残っているそうです。また社殿には木彫の釈迦像があり、その背面に「寛永五戌申八月十五日当寺十一世日明在判(以下略)」と墨書されているそうです。この八幡神社の記事は、神仏混淆時代の遺物として貴重なものです。八幡神社の本殿が小室の集落に背を向けているのは、小野田・小池の守り神なのでこのような建て方をしたのだと地元では言われています。境内には天神社がまつられています。
 
4. 小室の文化財
 小室の字白井先の台地は、千葉ニュータウン造成に先立って発掘調査が行われ、白井先A遺跡から縄文時代早期井草式、中期阿玉台式、池谷津遺跡から縄文時代後期称名寺式、加曽利B式、堀之内式の土器片が発見され、縄文後期の住居址も発見されました。白井先B・C・D遺跡では古墳時代中期和泉式、後期鬼高式土器が多数住居址と共に発掘され、5世紀頃から7世紀頃まで集落が存続していたことが明らかになりました。この他に清野遺跡(縄文後期堀之内式)、上台遺跡(縄文早期夏島式、稲荷台式、古墳時代後期鬼高式)などが確認されていますが、まだ発掘調査は行われていません。
 中世に関するものでは、八幡神社敷地一帯が城跡であったという人もありますが、現在では確認すべきものもなく、伝承もはっきりしません。板碑は市内最古の弘安元年(1278)銘の種子板碑、康永3年(1344)銘の題目板碑の他3枚発見されています。千葉県無形文化財の「小室の獅子舞」はその起源がはっきりしませんが、古い伝統をもつものです。ちなみにこの獅子舞は毎年8月21日の施餓鬼会の碑と、9月1日(昔は八朔の日)に本覚寺や八幡神社、氏子宅などで舞われます。
 近世以後の民間信仰にかかわる石碑は、元禄8年(1695)、享保14年(1729)、寛延4年(1751)、寛政8年(1796)、文政6年(1823)、天保10年(1839)の庚申塔、天明元年(1781)の日蓮上人供養塔、天明4年(1784)の題目塔、天明5年(1785)の道祖神、寛保元年(1741)の疱瘡神、寛政10年(1798)の弁財天、天明5年(1785)の二十三夜塔、文化3年(1806)の妙見尊、寛政2年(1790)の稲荷、明治42年(1909)の水難供養塔などが主なものです。
 本覚寺境内には、江戸時代から明治にかけて地元の教育に尽力した林隆斎、飯島学園、小林徳次郎の碑がたてられています。
 
5. 小室の旧家
 小室の草分けについては今のところ明らかでありませんが、幕末の慶応2年(1866)には38軒の家があったといいます。
 地元にのこる旧家の姓は、武藤・小林・林田・高橋・米井・飯島・笠川・染井などで、ちなみに江戸時代に名主をつとめたのは武藤与左衛門家であったそうです。また笠川家は八幡神社の神官をつとめ、高橋家は獅子舞をとりしきっていたそうです。
 
(参考文献)
 千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
 (講義録)船橋の歴史 船橋市郷土資料館 昭和51年
 小室の歴史 船橋市立小室小学校 昭和59年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年