27 車方

※ 初出:『資料館だより』第38号(昭和61年8月1日発行)
 
1. 車方のおいたち
 下総国千葉郡車方村は、印旛沼に注ぐ神崎川の支流鈴身川の流域にあり、標高21~23mの台地と5~10mの沖積地となっています。北は小野田、西は小野田、神保新田(現大神保町)、南は行々林(現鈴身町)、東は神保新田(現八千代市島田台)、小池(現八千代市)にかこまれています。
 車方の地名の起こりについては伝承も記録もなくわかりませんが、平安時代の末頃には臼井荘に属し千葉一族に支配されていたと考えられています。中世の文献である中山法華経寺文書応永13年(1406)千葉道胤売券に「神保郷内ふるまかたの村田畠......」の記事があり、これは車方のことをさしているという考えもあります。
 車方は、寛文元年(1662)松平和泉守乗久が、上野国(群馬県)館林から佐倉に移封されたさい佐倉藩領になったといわれ、乗久が転封となる延宝6年(1678)まで続いたようです。江戸時代のはじめは下総国葛飾郡に属していましたが、元禄の頃(1688~1703)下総国千葉郡に属し幕末まで続きました。佐倉藩の支配からはなれると、ここは旗本鈴木家の支配となり幕末まで変わりませんでした。ちなみに江戸時代の車方村の村高は32石1斗6升でした。
 明治元年(1868)この地は知県事佐々布貞之丞の支配となり、のち葛飾県に属し、明治4年(1871)には印旛県に属します。明治6年(1873)千葉県第11大区5小区に、明治8年(1875)第11大区11小区に改められました。
 明治11年(1878)郡区町村編成法施行のさい千葉県千葉郡に編入され、小室・小野田・行々林と共に村連合を組織、同17年(1884)戸長役場所轄区域更定で豊富村の母体となる12ヶ村がまとまり同一戸長役場の所轄に属しました。そして明治22年(1889)には、小室・小野田・車方・行々林・神保新田・坪井・大穴・楠ケ山・古和釜・大神保・八木ケ谷がまとまり、千葉県千葉郡豊富村が結成され、豊富村車方となりました。この時の調査で車方は水田8町7反8畝28歩、畑地6町7反4畝14歩、山林原野等をあわせて15町5反3畝12歩でした。
 昭和29年(1954)豊富村は船橋市に合併し、船橋市車方となり、同30年(1955)には町名設定で船橋市車方町となって現在にいたっています。
 
2. 車方の人口

 車方の面積は昭和45年(1970)の調査で0. 54km²で、慶応2年(1866)には10戸、71人であったそうです。明治以後で人口の知れるのは表のとおりです。
 車方は、江戸時代以来農業中心の地域で、人口の推移に見られるように変化はほとんどみられません。また地区全体が市街化調整区域となっており、宅地開発の波もきておらず、昔ながらのたたずまいがのこっています。近年台地上の畑は梨の果樹園に変わりつつあり、鈴身川流域の水田も昭和59年(1984)耕地整理が行われました。
 
3. 車方の寺社
 車方の寺は、妙玉山法井寺です。中山法華経寺の末寺であったそうです。本尊は釈迦牟尼仏で、創立の年代は明らかでありませんが、日意という法華僧がおとずれて開基したと伝えています。

法井寺

 車方の鎮守は神明神社で、祭神は天照大神です。毎年10月18日に鎮守祭が行われます。法井寺の裏に位置し、境内には駒形神社・天神社がまつられています。

神明社

4. 車方の文化財
 車方には、字向野で土師器が採集され向野遺跡と命名されていますが、まだ発掘調査が行われたわけではなく、時代の判定までにはいたっていません。しかし昭和59年(1984)の圃場整理のさい古墳時代前期五領式土器の器台が発見されているのであるいはこの時期の遺跡かも知れません。
 中世の文化財は今のところありませんが、古い村ですのでいずれ発見されるでしょう。
 江戸時代以後の民間信仰にかかわるものは、宝永元年(1704)、宝暦2年(1752)、寛政4年(1792)、享和3年(1803)、文化8年(1811)、文化15年(1818)、文政4年(1821)、天保9年(1838)、嘉永元年(1848)、明治5年(1872)、明治20年(1887)、明治28年(1895)の庚申塔。寛文8年(1668)、寛政元年(1789)、安政2年(1855)の題目塔。寛政7年(1795)、明治45年(1912)の二十三夜塔。文化7年(1810)の子安塔。天明元年(1781)、明治14年(1881)の日蓮上人供養塔。昭和5年(1930)の水難供養塔。文政7年(1824)、明治28年(1895)の道祖神。安永2年(1773)の水神。文政元年(1818)の稲荷。文化4年(1807)の天神などが主なものです。

庚申塔群


道祖神


風邪神

5. 車方の旧家
 車方にはいまのところ古文書をはじめとする古い文献は発見されておらず、草分けについてははっきりわかりません。慶応2年(1866)に10戸あったといわれ、中屋敷・治右衛門・源左衛門・新左衛門・五兵衛などの屋号をもつ家もあります。ちなみに車方の旧家は、伊藤、角頼、高橋、遠山、富長、平川、湯浅姓をもっています。
 
(参考文献)
 千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
 船橋市古代中世史料抄 船橋市史談会 昭和50年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年