30 金堀

※ 初出:『資料館だより』第41号(昭和62年8月1日発行)
 
1. 金堀のおいたち
 下総国千葉郡金堀村は、標高25~29mの台地と、10m程度の沖積地をもつ村で、北に神保新田、東に桑橋村・吉橋村(共に現八千代市)、南に古和釜村、西に楠ケ山村にかこまれています。金堀の地名の起こりについては明らかでありませんが、地元では「ここで砂金がとれたからカネホリとした」と伝えています。
 中世の頃、神保郷に属していたと思われ、江戸時代初期は、伊予国今治城主松平美作守定房の領地となり、その子定時に相続されました。定時の死後三男修理亮定昌に支配され、以後旗本松平(久松)侶之丞家5000石の知行地として幕末まで続きました。寛文9年(1669)検地を受けたさいは、下総国葛飾郡金堀村とされましたが、元禄の頃には下総国千葉郡金堀村となったようです。
 村高は元禄15年(1702)に108石2斗8升2合で幕末まで続きました。
 明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の支配をうけ、のちに葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)印旛県となり、明治6年(1873)千葉県11大区5小区、明治8年(1875)千葉県11大区11小区に編成替えとなります。明治11年(1878)郡区町村編成法で、楠ケ山・金堀・大穴・坪井・古和釜で村連合を組織。明治17年(1884)戸長役場所轄区域更定で12ヶ村がまとまり、明治22年(1889)楠ケ山・大穴・坪井・古和釜・金堀・神保新田・八木ケ谷・大神保・小室・小野田・車方・行々林がまとまって千葉県千葉郡豊富村を組織し、豊富村金堀となりました。
 昭和29年(1954)豊富村は船橋市に合併し、この地は船橋市金堀となり、昭和30年(1955)の町名設定で船橋市金堀町となり現在にいたっています。

金堀橋より金堀集落を望む

2. 金堀の人口
 金堀の面積は、昭和45年(1970)の調査では、1. 369km²で、明治5年(1872)は45戸320人(男158、女162人)であり、主に小字の榎戸(後金堀)、堂ノ前(前金堀)に多くの家があったといいます。
 以後人口の知れるのは下記の通りです。

 金堀は、平安時代頃に開かれたと思われ、このあたり一帯を神保郷に比定する人もあり、平安時代末から鎌倉時代頃まで千葉氏の勢力下にはいり、萱田神保御厨の一部で伊勢神宮領にもなったとも考えられます。また字殿山には中世城址「金堀城址」も存在していました。近年工場や学校をはじめとする施設がつくられてきましたが、まだまだ古い農村のたたずまいを各所でみることのできる地域です。
 
3. 金堀の寺社
 金堀の寺は無量山龍蔵院多聞寺で、真言宗豊山派です。吉橋村貞福寺の末寺でした。現在は無住の寺ですが、村の法事等は市川市国分の宝珠院の住職にお願いしているそうです。寺伝では元亀3年(1572)9月開基と伝え、本尊は阿弥陀如来です。境内には毘沙門堂・大師堂があります。

龍蔵院境内の子安塔

 金堀の鎮守は日枝神社で、祭神は大山祇命・天照大神・面足命・玉垂命・木花開耶姫命・磐長姫命だそうです。毎年10月19日に例祭が行われ、9月1日には昔、三匹獅子舞が行われました。創立年代はわかりませんが、大正2年(1913)に村内にあった神明神社・道祖神社・足尾神社・浅間神社・小御嶽神社・白幡神社などの祠を日枝神社に合祀したので、祭神の数が増えたといいます。
 字西ノ下には観音堂があり、ここには吉橋組大師講69番の札所もあります。
 
4. 金堀の文化財
 字源五台に、縄文時代早期茅山式、前期黒浜式、古墳時代前期五領式の土器片が採集され、住居址も認められたそうです。また字遠山には縄文時代後期堀之内式、奈良平安時代の国分式土器が採集されており、それぞれ源五台遺跡、遠山遺跡と命名されていますが、まだ正式な発掘調査は行われていません。
 中世に関するものは、字殿山に金堀城址があり、標高20m程の台地の端に、内郭・帯曲輪があり、船橋市史前篇にその平面図がのこされていますが、昭和40年代の土砂採集工事でなくなりました。この城についての伝承や記録はまだわかっていません。
 江戸時代以後の民間信仰にかかわる石碑は、庚申塔では、正徳3年(1713)、延享元年(1744)、明和9年(1772)、寛政6年(1794)、天保13年(1842)、安政4年(1857)、明治4年(1871)、明治11年(1878)、明治14年(1881)、明治33年(1900)、明治42年(1909)、大正6年(1917)、大正15年(1926)の13基。安政5年の読誦塔、延享元年(1744)、寛政2年(1790)の十九夜塔、寛政6年(1794)、元治元年(1864)の二十三夜塔。子安塔は、天明5年(1785)を最古に、明治11年(1878)、明治24年(1891)、明治33年(1900)、明治43年(1910)、大正6年(1917)、大正15年(1926)、昭和56年(1981)の8基。明治42年(1909)の無縫塔、明治43年(1910)の弘法大師、明治16年(1883)の聖徳太子、明治9年(1876)、明治15年(1882)弁財天、明治22年(1889)、明治37年(1904)、大正8年(1919)の馬頭観音、宝暦13年(1763)、天明4年(1784)、享和3年(1803)、天保13年(1842)、元治元年(1864)、明治34年(1901)、明治40年(1907)、大正14年(1925)、昭和32年(1957)、昭和40年(1965)の出羽三山碑、文久元年(1861)の富士講碑、昭和15年(1940)、昭和35年(1960)の伊勢講碑、文政7年(1824)の道祖神、元文4年(1739)の大六天などを各地でみることができます。

庚申塔群

5. 金堀の旧家
 寛文9年(1669)の検地帳によると、屋敷24と竜蔵院があったと船橋市史前篇に記録されています。金堀の旧家は、竜蔵院の近くの字堂の前、横作(後金堀)、広い桑納川沖積地に面する字堂ヶ島・新道・松葉下・堀込(前金堀)にあります。旧家の姓は、会田・青山・飯島・石神・大石・押田・柴田・柴山・城下・鈴木・湯浅・横尾・吉橋などです。江戸時代には、飯島・柴田・柴山の三家が名主を勤めたといわれています。
 
(参考文献)
 千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年