31 楠が山

※ 初出:『資料館だより』第42号(昭和62年12月1日発行)
 
1. 楠が山のおいたち
 下総国千葉郡楠ケ山村は、標高21m~27mの台地と、19~20mの沖積地で構成され、沖積地には神崎川に注ぐ桑納川の支流の神保川が流れています。北は神保新田・金堀村、東は古和釜村、南は大穴村、西は三咲にかこまれています。
 江戸時代以前に開かれた古村で、中世の頃は神保郷のうちの西郷に属していたと考えられます。江戸時代はじめの支配はわかりませんが、寛永2年(1625)山名平右衛門豊政が、下総国葛飾郡内に1000石加増され、その弟の豊義に分与され山名図書家を起こしたなかに楠ケ山も含まれており、この支配は幕末まで続きました。
 元禄の頃(1688~1703)までは、下総国葛飾郡楠ケ山村でしたが、このころ千葉郡楠ケ山村に改められたようです。
 明治元年(1868)この地は、知県事佐々布貞之丞の支配となり、一時葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)印旛県に属します。明治6年(1873)千葉県第11大区5小区に、明治8年(1875)第11大区11小区に改められました。
 明治11年(1878)郡区町村編成法施行のさい千葉県千葉郡に編入され、楠ケ山・大穴・古和釜・坪井・金堀と共に村連合を組織、明治17年(1884)戸長役場所轄区域更定で、豊富村の母体となる12ヶ村がまとまり、同一戸長役場の所轄に属しました。そして明治22年(1889)には、楠ケ山・大穴・坪井・古和釜・金堀・神保新田・八木ケ谷・大神保・小野田・車方・行々林・小室がまとまり千葉県千葉郡豊富村が組織され、豊富村楠ケ山となりました。
 昭和29年(1954)船橋市に合併すると、船橋市楠ケ山となり、同30年(1955)には、町名設定で船橋市楠が山町となり、昭和60年(1985)の新住居表示で、字土谷津と八ヶ作の一部が大穴北に編入されています。

古和釜より楠が山集落を望む

2. 楠が山の人口
 楠が山の面積は、昭和45年(1970)の調査で、0. 696km²で、慶応2年(1866)には11戸、人口は81人であったそうです。以後人口の知れるのは以下の通りです。

 楠が山の旧家は、字川端・大橋にまとまってあり、字入作・新山・天ヶ作・高田・平作・下井・川端・大橋戸の神保川沿岸地域には水田、台地上には畑地が開かれ、古くから農業中心の村でしたが昭和37年(1962)ごろに字十三仏あたりの分譲住宅地(現みつば町会)、昭和47年(1972)ごろに字土谷津・八ヶ作に向陽台団地がつくられ人口が増加しました。昭和60年(1985)向陽台団地一帯が新住居表示により、大穴北に編入したため人口が減少したように見えます。
 
3. 楠が山の寺社
 楠が山の寺は、慈眼山青蓮院延命寺といい、真言宗豊山派で、もとは吉橋貞福寺の末寺であったそうですが、現在は金杉金蔵寺の住職の兼務寺となっています。本尊は観音菩薩・地蔵菩薩です。この寺は治安年中(1021~1024)に知岸という僧によって開基されたと伝えています。寺に隣接して湯殿神社があります。祭神は天照大神で、正平17年(1362)に応瑞という僧が勧請したと伝えています。境内には仙元神社・厳島神社が合祀されています。この神社は周辺5ヶ村の出羽三山講の人々に信仰され、毎年10月7日に楠が山・八木が谷・坪井・古和釜・大穴の人々が集い儀式を行います。祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊・天照大神です。健治元年(1275)吉橋城主の吉橋丹後守胤俊が勧請したと伝えています。境内には白幡神社・地守護神社・駒形神社があります。毎年1月23日におびしゃ、1月24日に辻切り、10月18日に例祭の行事が行われます。

湯殿神社 鳥居参道

4. 楠が山の文化財
 楠が山では、まだ古代の遺跡は見つかっていませんが立地の様子からみていずれ発見されることでしょう。
 中世の遺跡としては、字高山に楠ケ山館跡があり、郭の跡がまだ残っています。地元にのこる伝承では、吉橋(現八千代市)の香取山城が落城のさい、その一族の一部がここに移り住んだと伝えています。松戸市の本土寺にある過去帳に「天正拾八年三月二十六日 クスカ山圓光院 秀運霊」の記事が見え、楠が山と関係する人かも知れません。
 中世か近世かはっきりしませんが、字十三仏には、いくつかの塚があります。青蓮院縁起によると「八木ヶ谷式部胤宜の娘が亡父のため尼になり楠ケ山西原に十三仏土塔を築き供養した」という意味のことが記されていますが、地元では全く別の伝説ものこっています。
 江戸時代以後の民間信仰にかかわるものは、宝暦10年(1760)、寛政6年(1794)、文政7年(1824)、天保3年(1832)、安政6年(1859)、文久元年(1861)、明治21年(1881)、大正6年(1917)の庚申塔、延享元年(1744)の十九夜塔、文化2年(1805)、大正11年(1932)の子安塔、天保4年(1833)、明治28年(1895)の弘法大師供養塔、嘉永元年(1848)の如意輪観音、天保8年(1837)の六地蔵、文政12年(1829)の弁財天、文化4年(1807)、明治8年(1875)、昭和4年(1929)、昭和8年(1933)の馬頭観音、安政2年の出羽三山碑、弘化4年(1847)、昭和23年(1948)の富士講碑、延享5年(1748)の道祖神、嘉永5年(1852)の地守、嘉永5年(1852)の大六天、嘉永4年(1851)の大杉明神、明治19年(1886)の山神などが主なものです。
 楠が山の墓地には、明治6年(1873)に建立された斉藤義郊の筆子塚があります。

青蓮院境内二十六夜塔

5. 楠が山の旧家
 楠が山の旧家は、字川端・大橋にあつまっており、慶応2年(1866)には11戸あったそうです。北西に台地を背負い、南東に開けたところが住地となっており、前面の神保川・三咲川の合流するあたりの水田を望むこの地方の典型的な農村集落です。
 旧家の姓は、金子・斉藤・吉橋で、屋号は孫右衛門、源内、孫四郎、武兵衛、茂平、五郎左衛門、与左衛門家が今でものこっています。ちなみに楠ケ山村の名主は吉橋家であったそうです。
 
(参考文献)
 千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年