1. 大穴のおいたち
下総国千葉郡大穴村は、印旛沼にそそぐ神崎川の支流である桑納川の小支流三咲川・大穴川でつくられた標高11~19mの沖積地と標高26~29mの台地とからなっています。
北は楠ケ山村、南は小金下野牧(現高根台)、西は三咲にかこまれており、中世には神保郷のうちの西郷に属していたと考えられています。
江戸時代のはじめの支配はわかりませんが、寛文年中(1661~1672)伊予国今治城主松平美作守定房の所領となり、その子定時の死後三男定昌に分与され、定昌が旗本松平家を起こしてこの地を支配し、幕末まで続きました。江戸時代のはじめの村高は103石で、代官支配地33石4斗3升4合でした。代官支配地は、寛文~延宝の頃開墾された海老ケ作が加えられたものと思われます。
大穴村は、元禄の頃(1688~1703)までは、下総国葛飾郡に属しましたが、元禄12年(1699)頃には千葉郡に組替えられたようです。
明治元年(1868)には、知県事佐々布貞之丞の支配となり、一時葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)印旛県に属します。明治6年(1873)千葉県第11大区5小区に、明治8年(1875)第11大区11小区に改められました。
明治11年(1878)郡区町村編成法施行のさい千葉県千葉郡に編入され、楠ケ山・大穴・古和釜・坪井・金堀の各村で村連合を組織。同17年(1884)戸長役場所轄区域更定のさい豊富村の母体となる12ヶ村がまとまり同一戸長役場の所轄に属しました。そして明治22年(1889)には、大穴・楠ケ山・坪井・古和釜・金堀・神保新田・八木ケ谷・大神保・小野田・車方・小室・行々林がまとまり千葉県千葉郡豊富村が組織され、この地は豊富村大穴となりました。この時の調査で大穴は水田22町9反3畝13歩、畑地36町7反3畝10歩、宅地3町9反2畝17歩、山林120町7畝4歩、原野1町6反4畝14歩、雑種地5反2畝25歩で計185町8反3歩23歩でした。
昭和29年(1954)豊富村は船橋市に合併し、船橋市大穴となり、同30年(1955)には町名設定で船橋市大穴町、昭和60年(1985)には新住居表示で大穴南、大穴北となり、大穴北には楠が山町の一部が組みいれられています。
2. 大穴の人口
大穴の面積は、昭和45年(1970)の調査で、2. 695km²で、慶応2年(1866)には36戸249人であったそうです。明治以後で人口の知れるのは下表のとおりです。
大穴は、江戸時代以来農業を中心に生産活動を行っていましたが、昭和36年(1961)頃に高根台団地がつくられ、その後背地にあたる海老ケ作から次第に住宅地の分譲が行われ、宅地造成が活発となり現在みられるような住宅地に変貌しました。しかし大穴地区各地では果樹園・畑地・山林ものこっており、農業を営む農家も少なくありません。
3. 大穴の寺社
大穴の寺は、観音山西光院阿弥陀寺といい、真言宗豊山派です。吉橋(現八千代市)貞福寺の末寺でしたが、現在は市川市国分宝珠院住職の兼務寺となっています。本尊は如意輪観音です。境内には四国八十八ヶ所七番札所の祠と観音堂があります。墓地には、幕末の俳人斎藤その女の墓(市指定文化財)、本堂のなかには数枚の句額がかけられています。
西光院 本堂
大穴の鎮守は神明神社で、祭神は天照大神です。毎年2月1日におびしゃ、10月7日には例祭が行われます。境内には子安宮、稲荷大明神の祠があります。神明神社は台地下の平地に立地しており、他の村の神社と趣が異なることから、船橋市史前篇では、平安時代この地が含まれていた萱田神保御厨に関係する神職の屋敷神から発展したという意味のことが書かれています。
4. 大穴の文化財
大穴には、字海老ケ作に海老ケ作貝塚、海老ケ作北遺跡があり、昭和45年(1970)と49年(1974)に発掘調査が行われ、縄文中期阿玉台式、勝坂式、加曽利E式、後期堀之内式土器にともなって多くの住居址や土壙が発掘され、船橋市を代表する遺跡の一つに数えられています。また字向台・鎌田・中台には土師器が採集されており、まだ発掘調査は行われていませんが、それぞれ向台遺跡・鎌田遺跡・中台遺跡と命名されています。
中世に関する文化財は、今のところ発見されていませんが、古くから開かれた村と考えられますのでいずれ発見されるでしょう。
江戸時代以後の民間信仰にかかわる石碑は、元禄3年(1690)、延享2年(1745)、安永2年(1773)、寛政6年(1794)、文政7年(1824)、安政5年(1858)、明治4年(1871)、明治12年(1879)、大正4年(1915)、昭和11年(1936)の庚申塔。寛政6年(1794)、文政11年(1824)の光明真言塔。文化12年(1815)の十九夜塔。天保12年(1841)の二十三夜塔。安永7年(1778)の子安塔(市内最古)。天保7年(1836)、嘉永元年(1848)の三界万霊塔。文政6年(1823)の弘法大師供養塔。昭和7年(1932)の聖徳太子供養塔。正徳5年(1715)の地蔵。文化13年(1816)の六地蔵。天保10年(1839)、慶応2年(1866)、明治15年(1882)、明治29年(1896)、大正元年(1912)、昭和52年(1977)の馬頭観音。昭和22年(1947)の出羽三山碑。寛保2年(1742)の道祖神。文化元年(1804)の稲荷などが主なものです。
庚申塔
5. 大穴の旧家
大穴の草分けは斎藤某家ですが、江戸時代のはじめ頃、五郎兵衛家、安兵衛家が独立して江戸時代の富豪に発展したといわれています。五郎兵衛家は小金下野牧の牧士を勤め、安兵衛家は名主で、領主松平家の知行地5ヶ村の名主惣代を勤めていたそうです。
大穴の旧家は、安藤・伊藤・斎藤・桜井・白井姓、海老ケ作の旧家は、斎藤・鈴木姓です。
(参考文献)
千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
憑蔭集 船橋市史談会 昭和58年
船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年