33 古和釜

※ 初出:『資料館だより』第44号(昭和63年8月1日発行)
 
1. 古和釜のおいたち
 下総国千葉郡古和釜村は、標高14~27mの台地と、10~12m程度の沖積地をもつ村で、北東に向き傾斜した土地柄です。北に楠ケ山村・金堀村、東は坪井村、南は習志野原、西は大穴村にかこまれています。古和釜の地名の起こりについては明らかでありませんが、船橋市史前篇では、釜は元来穴で、滝壺などをさすが、千葉県の場合沼沢や谷頭の窪地や水溜りなどをさす場合が多いので、このあたりから起こったのではないだろうかという意味のことを記しています。
 中世の頃、神保郷に属していたと思われ、江戸時代初期は、伊予国今治城主松平美作守定房の領地となり、その子定時に相続されました。定時の死後、三男修理亮定昌に支配され、以後旗本(久松)侶之丞家5000石の知行地として幕末まで続きました。江戸時代はじめは葛飾郡でしたが、元禄のころから千葉郡となったようです。村高は幕末で132石余でした。
 明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の支配をうけ、のちに葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)印旛県となり、明治6年(1873)千葉県11大区5小区、明治8年(1875)千葉県11大区11小区に編成替えとなります。明治11年(1878)郡区町村編成法で、楠ケ山・金堀・大穴・坪井・古和釜で村連合を組織。明治17年(1884)戸長役場所轄区域更定で12ヶ村がまとまり、明治22年(1889)楠ケ山・大穴・坪井・古和釜・金堀・神保新田・八木ケ谷・大神保・小室・小野田・車方・行々林がまとまって千葉県千葉郡豊富村を組織し、豊富村古和釜となりました。
 昭和29年(1954)豊富村は、船橋市に合併し、この地は船橋市古和釜となり、昭和30年(1955)の町名設定で船橋市古和釜町となりました。そして昭和48年(1973)には、古和釜町の南部が松が丘1~5丁目に住居表示され現在にいたっています。
 
2. 古和釜の人口
 古和釜の面積は、昭和45年(1970)の調査で、2. 142km²でした。慶応2年(1866)40戸・279人(男135人・女144人)であったといいます。
 以後人口を知れるのは以下の通りです。

 古和釜北部にある古い集落は、平安時代頃に開かれたと思われ、このあたり一帯を神保郷に比定する人もいます。平安時代末から鎌倉時代ごろまでは千葉氏の勢力下にあったと考えられています。昭和30年代後半頃から、南部の字西割・東割が住宅地に変えられ、次第に住宅が増加し、人口が急増します。そして昭和48年(1973)に新住居表示され、松が丘1~5丁目となり、この地に多くの町会・自治会が組織されました。しかし北部の古い集落のある地域では昔ながらのたたずまいを今日でも見ることができます。
 
3. 古和釜の寺社
 古和釜の寺は、瑠璃光山青蓮院東光寺で、天台宗延暦寺派です。印旛郡印西町(※令和2年時点では印西市―郷土資料館補注)泉倉寺の末寺でしたが、現在は無住で、印旛郡白井町(※令和2年時点では白井市―郷土資料館補注)神宮寺の住職の兼務寺となっています。創立年代はわかっていませんが、境内の墓地から宝篋印塔や板碑が発見されているのでかなり古い寺なのでしょう。本尊は阿弥陀如来で、境内には薬師堂があります。

東光寺本堂

 鎮守は八王子神社で、旧豊富村唯一の村社とされ、祭神は天忍穂耳命・天照大神・豊受姫命・猿田彦命・稲倉魂命だそうです。毎年10月7日に例祭が行われています。神社の創建は大同2年(807)とも、天慶2年(939)ともいわれていますがはっきりわかりません。大正2年(1913)この地に新しい神社をつくったさい、村内にあった多くの寺社をここに合祀したといわれています。また八王子神社は古和釜・坪井・大穴・楠ケ山・八木ケ谷5ヶ村の総鎮守であったともいわれ、七年毎に行われる三山の七年祭りにもこの神社も参加しています。
 
4. 古和釜の文化財
 字北之崎で、古墳時代後期から平安時代にかけての土器片が採集されていますが、まだ発掘調査は行われていません。北部の水田に面する台地は、遺跡の存在する可能性の高い立地なので、いずれ遺跡が発見されることでしょう。
 中世に関するものは、字西割に中世城址「小穴城」があったといわれ、かつては土塁や空堀があり、舞台台とよばれる場所もあったということです。また東光寺の墓地から、明徳2年(1391)銘の宝篋印塔、応仁2年(1468)・文明15年(1483)銘の板碑が発見されています。
 江戸時代以後の民間信仰にかかわる石碑は、庚申塔では、元禄6年(1693)、宝暦12年(1762)、安永2年(1773)、寛政12年(1800)、文化2年(1805)、文化13年(1816)、文政8年(1825)、天保10年(1839)、嘉永元年(1848)、万延元年(1860)、明治5年(1872)、明治13年(1880)、明治27年(1894)、大正4年(1915)銘の14基。天保9年(1838)銘の刻経塔。寛政11年(1799)銘の道祖神。寛政10年(1798)、明治2年(1869)銘の水天宮。十九夜塔は、文久元年(1861)、明治7年(1874)、明治13年(1889)、明治35年(1902)、大正6年(1917)銘の5基。文政5年(1822)銘の二十三夜塔。明治29年(1889)銘の二十六夜塔。明和9年(1772)、安永5年(1776)、文政13年(1830)銘の廻国塔。昭和44年(1969)銘の巡拝塔。大正5年(1916)銘の聖徳太子供養塔。安永6年(1777)銘の大日如来。文化11年(1814)銘の妙正大明神。延宝3年(1675)銘の愛宕地蔵。延享4年(1747)-市内最古-、元治元年(1864)銘の不動明王。宝暦5年(1755)銘の弁財天。馬頭観音は、安永8年(1779)、弘化2年(1845)、明治15年(1882)、明治20年(1887)、昭和10年(1935)、昭和29年(1954)銘の6基。出羽三山碑は、嘉永7年(1854)、昭和3年(1928)、昭和4年(1929)、昭和18年(1943)、昭和27年(1952)、昭和37年(1962)、昭和57年(1982)銘の7基。宝暦13年(1763)銘の稲荷。寛保2年(1742)銘の大杉明神。寛保3年(1742)銘の白山権現。享和4年(1804)銘の天王宮。享和3年(1803)銘の虫神など地域内各地で見られ、種類が多いのが特徴です。
 また、東光寺境内の祠に納められている石仏像は、市の有形文化財の指定を受けており、江戸時代のもので、時代性・芸術性をそなえた貴重なものとされ、像の背に「自休大徳」と彫られています。
 
5. 古和釜の旧家
 古和釜の旧家は、桑納川に流入する支流である木戸川・坪井川の沖積地を望む北に面する比高の小さい台地上の、字前原、門の掘入、上の台、北の崎、水神脇、西の畑、坪井込、太郎子下、太郎子に多くみられます。旧家の姓は、青山・石神・金子・斎藤・中村・夏見・橋本・藤代などです。 ちなみに江戸時代の名主は、石神家ほかが勤めたということです。
 
(参考文献)
 千葉県千葉郡誌 千葉県千葉郡教育会 大正15年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年