※ 初出:『資料館だより』第46号(平成元年3月31日発行)
1. 五日市のおいたち
下総国葛飾郡五日市村は、東京湾にそそぐ海老川の東岸にある村です。標高0~10mの低地と10~21mの砂丘と台地からなっています。
北は前原新田・七熊村、西は九日市村(本町)、東は谷津村(現習志野市)、南は東京湾にかこまれた古村です。
中世の頃は伊勢神宮の荘園である夏見御厨の一部と考えられ、吾妻鏡文治2年(1186)の条に、「下総国院御領船橋御厨」、建久3年(1192)神宮雑書伊勢大神宮神領注文に「下総国夏見御厨、保延四年建」といった大記事が見られます(保延4年は西暦1138年―郷土資料館補注)。また船橋文書(船橋大神宮旧蔵)には、応長元年(1311)の船橋御厨六ヶ郷田数の事という文書に「東船橋・西船橋・湊郷......」などと地名があらわれ、この東船橋がこの地にあたるとも考えられます。
江戸時代には葛飾郡五日市村となり、天領(幕府直轄領)として代官の支配をうけ幕末まで続きました。江戸時代初期の村高は不明ですが、元禄14年(1701)には1003石7斗、幕末の慶応3年(1867)には代官支配地1126石5斗6升、与力給知52石、意富比神社領50石と定められていました。
明治元年(1868)には知県事佐々布貞之丞支配となり、明治2年(1869)葛飾県、明治4年(1871)には印旛県に属します。明治6年(1873)には千葉県第12大区3小区となり、明治8年(1875)に郡区改正で千葉県東葛飾郡船橋五日市となり、明治11年(1878)には郡区町村編成法で、五日市・九日市・海神の3村がまとまり、明治17年(1884)戸長役場所轄区域更定で、船橋五日市・東夏見・西夏見が連合し五日市に戸長役場がおかれました。そして明治22年(1889)には五日市・九日市・海神がまとまり、千葉県東葛飾郡船橋町となり、この地は船橋町五日市となります。
昭和12年(1937)には、船橋町・葛飾町・八栄町・塚田町・法典村がまとまり、千葉県船橋市となり、船橋市五日市となります。そして昭和15年(1940)船橋市は新町名の設定を行い、この地は宮本1~6丁目に変更されます。
昭和43年(1968)に宮本1~9丁目、東船橋5~7丁目、市場1~5丁目、昭和52年(1977)に東船橋1~4丁目、昭和62年(1987)に駿河台1・2丁目の新住居表示が行われて現在にいたっています。
なお江戸時代の五日市村の地域は、現在では、宮本・東船橋・市場・駿河台となり一部宮本町がのこされています。
2. 五日市の人口
五日市の面積は、昭和45年(1970)の調査で、2. 197km²(宮本・宮本町・市場1~5丁目の総計)です。享和3年(1803)では、384戸1,765人(男923人・女842人)、安政2年(1855)では、443戸文久2年(1862)には440戸であったと記録されています。明治以後の人口の推移は下表の通りです。
五日市は江戸時代は農業生産力も多い村でしたが、海老川河口を利用した廻船業者やそれにともなう職人も多く、船橋大神宮門前にあたる横宿あたりは、商人職人も多くおり、この地方ではかなり大きな村であったそうです。
昭和10年(1935)ごろから、大神宮下駅から船橋競馬場駅にかけての京成電車北側の住宅が増加し、閑静な住宅地が形成されました。昭和30年(1955)をすぎるころになると、峰台小学校周辺・駿河台あたりも住宅地と変わり、昭和55年(1970)以後は各地に中高層マンションが建てはじめられています。
3. 五日市の寺社
五日市は、この地方では寺社の多いところとして知られています。寺院では、西福寺・慈雲寺・了源寺・東光寺の4寺がのこっていますが、昔は専蔵寺・万福寺・善法寺・宝光院などがあったそうです。神社も、船橋大神宮(意富比神社)・茂呂神社・日枝神社・天神社・羽黒神社・道祖神社・弁天社・彦右衛門稲荷・宮坂稲荷などがあります。以下主な寺社を紹介しましょう。
<西福寺> 船橋山清浄院西福寺といい真言宗豊山派で、大和長谷寺の末寺で小本寺の寺格をもっていたそうです。創建は鎌倉時代とされ、元禄の頃(1688~1703)には14の末寺をもっていたといわれています。文化年間(1804~1817)には、本堂・客殿・鐘楼をもつ大きな寺だったそうですが、慶応4年(1868)の船橋戦争のさいに焼失してしまったといわれています。
<慈雲寺> 大峰山慈雲寺といい曹洞宗の寺です。鎌倉圓覚寺を開いた無学祖玄の開基と伝え、戦国時代の安房の里見氏や小田原の北条氏の援助を受け、本堂・仏堂・法堂・庫裏・鐘楼をもつ大きな寺でしたが、国府台の戦い(1564)で焼失したのだそうです。その後小さな寺として復興しましたが船橋戦争(1864)に再び焼失し、以後しばらく無住となり、昭和24年(1949)に野口宗郁師がこの寺の再興に尽力されたのだそうです。本尊は秘仏の釈迦牟尼仏とされているので、別名「お釈迦寺」とよばれています。
<了源寺> 光雲山伝翁院了源寺といい浄土真宗本願寺派の寺です。藤原匡親が永禄年間(1558~1566)に開いたとも、伝翁という僧が天正年間(1573~1591)に開いたとも伝えています。本尊は阿弥陀如来です。この寺の境内にある鐘楼からうたれる鐘の音は「時の鐘」とされ、江戸時代のこの地方の人々に時刻を知らせていたのです。これにまつわる和時計と太田蜀山人直筆の掛軸は市指定文化財となっています。また了源寺は宮本小学校の前身である真名校誕生の地でもあります。
<東光寺> 慈明山東光寺といい真言宗豊山派の寺です。浄信という僧が天文年間(1532~1554)に開いたと伝えています。本尊は薬師如来です。境内に不動堂と大師堂がありますが、不動堂は特に浪切不動とよばれ、漁師や船乗りの信仰をあつめていたそうです。
<船橋大神宮> 創建年代はわかりませんが、平安時代の書物延喜式にあらわれた「意富比神社」がこれにあたると考えられています。祭神は天照大神・豊受大神・意富比神とされています。江戸時代はじめ徳川家康がおとずれ神領50石を寄進し幕末まで続きます。また徳川秀忠は、境内に日本武尊・徳川家康を祀る常盤神社をつくったといいます。これら神社は船橋戦争(1864)で焼失しましたが、明治15年(1882)に再建され、県社としての格を与えられました。境内には千葉県指定文化財の灯明台のほか、歴代江戸幕府将軍の寄進状・懸仏などさまざまな文化財が保存されています。またここには40社におよぶ神々が境内各地にまつられています。祭礼は、毎年1月1日元旦祭、2月3日節分祭、2月17日祈年祭、6月1日常盤神社祭、10月19日外宮祭、10月20日例大祭、11月23日新嘗祭、12月酉日大鳥神社祭などが行われます。
<茂呂神社> 創建年代はわかりませんが、富士信仰の拠点としてつくられたのでしょう、祭神は木花開耶姫命とされ、毎年7月1日に山開きといわれる行事が行われます。意富比神社の摂社とされています。
砂山浅間ともよばれ、この神社にくると船橋の市街地や東京湾が一望のもとに見わたせる風光明媚なところと知られていたそうです、
<日枝神社> 万治2年(1659)疫病が流行してこまった住民達が、比叡山の山王権現の神霊を迎え祈願したところ退散したのでこの社を創建したのだそうです。祭神は大山咋神で毎年7月11日に例祭が行われます。明治時代に村社となりました。
<天神社> 元文元年(1736)原宿の開墾にはいった人達6軒が、相談し創建したのだそうです。祭神は菅原道真公・木花開耶姫命とされています。毎年10月9・10日に例祭があります。
<羽黒神社> 天和3年(1683)羽前国羽黒山神社に詣る講社が、毎年いただいてくる神札を収める場所として創建したのだそうです。ここに詣ると羽黒山に参拝したのと同じ霊験があるといわれていました。
4. 五日市の文化財
五日市に存在する原始・古代の遺跡は字東駿河台に縄文中期阿玉台式、加曽利E式土器、古墳時代の土師器・須恵器、字中駿河台・西駿河台に古墳時代の土師器が採集されており、それぞれ東駿河台遺跡・中駿河台遺跡・西駿河台遺跡と命名されていますが、まだ本格的な発掘調査は行われていません。字貝殻堀込では、昭和44年(1969)に発掘調査が行われ、縄文後期称名寺式・堀之内式・加曽利B式土器にともなって住居址や墓が多数発見され、奈良平安時代の国分式土器も発掘されており、宮本台遺跡と命名され船橋を代表する遺跡の一つとなっています。字峰台には、古墳があったといわれ、古く石室が発見されたようですが現在では削平され明らかでありません。
中世にかかわるものは、西福寺墓地に千葉県指定文化財の五輪塔・宝篋印塔があり、昭和56年(1981)に改修工事が行われ、宝篋印塔下の石槨のなかから鎌倉時代後期の骨蔵器2点が発見されています。慈雲院には境内で出土した板碑3点が所蔵されています。また字城之腰一帯は、中世城址と考えるむきがありますが、再考する必要があります。
江戸時代以後の民間信仰にかかわるものは、庚申塔では、元禄2年(1689)、元禄9年(1696)、宝永7年(1710)、享保5年(1720)、享保10年(1725)、享保18年(1733)、元文3年(1738)、延享3年(1746)、寛延2年(1749)、寛延4年(1751)、明和4年(1767)、明和5年(1768)、安永4年(1775)、文政11年(1828)、天保5年(1834)、天保11年(1840)、安政4年(1857)、万延元年(1860)、慶応4年(1868)、明治3年(1870)、昭和9年(1934)銘。念仏塔では、寛文2年(1662)、寛文9年(1669)、元禄5年(1692)、元禄8年(1695)、文政10年(1827)銘。刻経塔では、宝暦12年(1762)銘。十九夜塔では、貞享2年(1685)、宝永7年(1710)、正徳5年(1715)、享保13年(1728)、享保14年(1729)銘、二十六夜塔では、大正12年(1923)銘。子安塔では、文政7年(1824)、天保7年(1836)、天保9年(1838)、天保10年(1839)、天保12年(1841)、昭和35年(1960)銘。廻国塔では、宝永6年(1709)-市内最古-、文政5年(1822)銘。社寺巡拝塔では、明治22年(1889)銘。阿弥陀如来石像は、元禄7年(1694)銘。大日如来石像は明治29年(1896)銘。地蔵像は昭和35年(1960)銘。六地蔵は元禄12年(1699)銘。不動明王石像は文化14年(1817)銘。弁財天では、文化8年(1811)、万延元年(1860)銘。馬頭観音では、文化4年(1807)、嘉永6年(1853)、安政5年(1858)、慶応3年(1867)、昭和7年(1932)銘。出羽三山碑では、宝暦4年(1754)、嘉永6年(1853)、明治6年(1873)、明治35年(1902)銘。富士講碑は明治44年(1911)、伊勢講碑では、明治40年(1907)、明治44年(1911)銘。秋葉山碑は明治13年(1880)銘。道祖神は寛政4年(1792)銘。疱瘡神は天保4年(1833)銘。妙正明神は昭和30年(1955)銘。稲荷石祠は、寛政6年(1794)、享和2年(1802)、安政2年(1855)、安政4年(1857)、元治元年(1864)、明治14年(1881)、明治25年(1892)、明治40年(1907)、明治44年(1911)銘。竜神は明治29年(1896)銘。猿田彦命は明治9年(1876)銘などが、地域の寺院・神社境内の路傍に散在しています。五日市地区の石造文化財は数量もさることながら、さまざまな種類のものが存在するのが特色であるといえます。
5. 五日市の旧家
五日市で、古くから人が住みついていた地域は本宿・横宿・宮ノ内であったといわれ、江戸時代にはいってから開墾のため上宿・下宿・台宿などに人が住みようになり、このあたりを五日市新田ともよんでいたそうです。また五日市は、九日市の宿場に隣接していることもあり、他の村とは異なり。農民の他、職人・商人・運輸にたずさわる人も多く住んでいたといわれています。江戸時代以来この地に住んでいるといわれる家は、金子・川奈部・盛田・鳥光姓が多いようです。ちなみに川奈部家が五日市の名主であったそうです。
(参考文献)
千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
船橋市史史料編 1 船橋市 昭和58年
船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年