36 小栗原(本中山)

※ 初出:『資料館だより』第47号(平成元年8月1日発行)
 
1. 小栗原のおいたち
 下総国葛飾郡小栗原村は、標高15~16m程の台地と1~2m程度の沖積地とからなっています。北は中山村(現市川市)、東は二子村、原木村(現市川市)、南は高谷村(現市川市)、西は鬼越村、高石神村(いずれも現市川市)にかこまれています。
 小栗原の地名の起こりについて「このあたりは古代以来下総国栗原郷に属しており、そのなごりなのである」といわれ、高橋源一郎氏は船橋市史前篇で、和名類聚抄にのせられた下総国栗原郷の一部で、小栗原という名も栗原郷名の名残りであり、栗原郷の枝郷ともいうべき意味であろうとのべています。
 中世のころ小栗原は、本郷・寺内・二子などと共に千葉氏の領地であるといわれ、旧鎮守であったといわれる妙見八幡社はこれを物語るものと考えられています(妙見八幡神社はもとは個人所有の神社であったともいいます)。
 江戸時代のはじめは、尾張犬山城主となった成瀬正成の支配をうけていましたが、やがて旗本朝比奈源六正直の支配をうけました。承応2年(1653)正直の二男百助某(源六助ともいう)に1100石分与された一部がこの地であったとされています。そして百助のひ孫の某が事件にまきこまれお家断絶となり、それ以後は代官支配地として幕末まで続きました。村高は江戸時代はじめはわかりませんが、元禄15年(1702)の検地以後は288石9斗1升4合で幕末まで続きました。延宝~宝永(1673~1710)に小田原前面の湿地帯の開墾が行われ、ここは兵庫新田とよばれていましたが元禄検地のさいにはすでに小栗原村に属していたようです。
 明治2年(1869)知県事佐々布貞之丞の支配をうけ、のち葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)には印旛県となり、明治6年(1873)千葉県12大区5小区に属し、明治11年(1878)郡区町村編成法で鬼越・高石神と共に村連合を組織、明治17年(1884)には戸長役場所轄区域更定で8ヶ村がまとまり二子村に戸長役場がおかれました。そして明治22年(1889)には、二子・西海神・山野・印内・寺内・古作・小栗原・本郷がまとまり、千葉県東葛飾郡葛飾村が組織されます。葛飾村の名はこの地の総鎮守とされている葛飾神社が本郷にあったのでこの名になったそうです。
 昭和6年(1931)には葛飾村は町制を施行し、この地は千葉県東葛飾郡葛飾町小栗原となり、昭和12年(1937)には、船橋町・八栄村・法典村・塚田村と共に船橋市を組織し、千葉県船橋市小栗原となり、昭和15年(1940)の町名設定で船橋市小栗原町1~6丁目となります。そして新住居表示が昭和42年(1967)・昭和49年(1974)に行われ、船橋市本中山1~7丁目となり現在にいたっています。
 
2. 小栗原の人口
 小栗原の面積は、昭和45年(1970)の調査で、0. 794km²、昭和63年(1988)の調査で0. 808km²(本中山と住居表示したためいくぶん他村の分がふくまれたか)となっています。安政2年(1855)には78戸、文久2年(1862)には80戸で、字五十石・権現下・仲町・城の下といった上総道ぞい、台地上の城之庭・上町、また、兵庫新田とよばれた地域では新田前あたりが住居地であったようです。
 明治以後で人口が知れるのは下表の通りです。

 小栗原はかなり古くから開かれていた村だと思われ、この地一帯は栗原郷に属していたと考えられています。また字城之庭は中世城址であったといわれています。明治時代の人口がわからないのが残念ですが、明治28年(1895)総武鉄道の下総中山駅(現下総中山駅)が開業すると、中山法華経寺の門前町のようになり人口が増加したようです。また大正4年(1915)には京成中山駅も開業し交通の要地となり、東京から移住する人達も増えました。また駅前通りには農作物を集荷する市場もでき大変なにぎわいだったともいわれています。大正12年(1923)の関東大震災以後は東京からの移住者が急に増加したともいわれています。昭和47年(1972)ごろになると中高層のマンションもつくられるようになります。そして昭和51年(1976)地下鉄東西線原木中山駅が開業するとさらに移住者も増え人口はさらに増加しました。このようなわけで上総道(国道14号線)ぞいには、まだ農家の建物ものこり、大正から昭和にかけての民家などところどころに見られ、新旧いりみだれている地域といえるでしょう。
 
3. 小栗原の寺社
 小栗原の寺は、中山法華経寺入口の近くにある日蓮宗の東照山妙圓寺で、昔は中山本行院の隠居寺であったといいます。寺伝によると寛文10年(1670)泉州(現大阪府)堺の妙国寺の住職日俊上人が中山法華経寺三十世貫主となった時にこの寺を創建したのだそうです。本尊は、題目を中心とした釈迦と多宝如来の座像です。このほか日蓮上人像、毘沙門天像があります。境内には小栗原村の名主であった御代川伝兵衛の供養塔、この話にまつわる「伝兵衛稲荷」の祠があります。
 鎮守は、稲荷神社です。江戸時代に村役人をしていた石井孫左衛門が京都の伏見稲荷を勧請し、自家の屋敷神としていたのを村でゆずりうけ鎮守としたのだそうです。祭礼は毎年10月18・19日に行われます。稲荷神社が鎮守になる前は子の神社であったといわれ、現在でものこっています。ここには妙見八幡社もあります。また天満宮もありますがこの由緒はわかりません。兵庫新田には高石神社があり、これは高石神の石井兵庫という人が開墾請負人となり、中村・松丸両家が入植したさい、開墾の成功をいのって高石神の鎮守をここに勧請したといわれています。
 
4. 小栗原の文化財
 小栗原では、まだ原始・古代の遺跡は発見されていませんが、鉄道建設でけずられた城之庭あたりの台地には存在した可能性はあります。
 中世の遺跡は、城之庭に小栗原城があり、土塁や空壕などがあったそうですが、大正4年(1915)京成電車の軌道工事で土地を削平したさいにこわされてしまったといわれています。
 江戸時代以後の民間信仰にかかわる石碑は、享保4年(1719)の庚申塔、文政9年(1826)の題目塔、大正9年(1920)の無縁塔、文化5年(1808)の巡拝塔、天保2年(1831)の日蓮上人供養塔、昭和4年(1929)の狐塚、天保12年(1841)の天満宮標識塔などが主なものです。
 
5. 小栗原の旧家
 小栗原の旧家は、上総道ぞいの地域と、兵庫新田の字新田前あたりに多くみられ、他の地域のほとんどは湿田となっており、蓮田などもあったといいます。
 小栗原の旧家の姓は、斎藤・石井・小川・石塚・伊藤・井上・地引・渡辺・宇田川・山本・藤井・後藤・中村・松丸・鈴木・金子・高橋などです。ちなみに江戸時代村役人をつとめたのは小川・中村・松丸・斉藤家であったそうです。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年
 葛飾誌 成瀬恒吉 昭和63年