※ 初出:『資料館だより』第48号(平成2年1月15日発行)
1. 二子のおいたち
下総国葛飾郡二子村は、標高0~2m程度の低地、10~15mの台地からなっています。北は若宮村(現市川市)、寺内村、東は本郷村、南は原木村(現市川市)、西は小栗原村にかこまれています。
二子の地名の起こりについて、高橋源一郎氏は船橋市史前篇で、二子という名は珍しくないが、多くは二子塚、二子山など山や前方後円墳があるところがこうよばれているので、この二子村の名も同様であろうという趣旨の説明をしています。また東京湾の海上からながめるとこのあたりの台地が二つ重なった山のようにみえたとか、二子の旧家の屋敷のなかに二子様とよばれる神がまつられていたからだともいわれています。
古代の二子は下総国栗原郷に属していたとおもわれ、中世のころは、本郷・寺内・小栗原と共に千葉氏の領地であったといわれています。
江戸時代のはじめは、尾張犬山城主となった成瀬正成の支配をうけ、成瀬正成が尾張に移った慶長15年(1610)以後は代官支配地となり幕末まで続きました。村高は元禄15年(1702)の検地で359石9斗9升9合で幕末まで変わりませんでした。
明治2年(1869)知県事佐々布貞之丞の支配をうけ、のち葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)には印旛県となり、明治6年(1873)千葉県12大区5小区に属し、明治11年(1878)郡区町村編成法で二子・西海神・本郷・山野・印内・寺内の6ヶ村で村連合を組織、明治17年(1884)には戸長役場所轄区域更定で小栗原、古作を加えた8村がまとまり二子村に戸長役場がおかれました。そして明治22年(1889)にはこれら8村がまとまり千葉県東葛飾郡葛飾村が組織されます。葛飾村の名はこの地域の総鎮守とされている本郷村にある葛飾神社の名にちなんでつけられたのだそうです。
昭和6年(1931)には葛飾村は町制を施行し、この地は千葉県東葛飾郡葛飾町二子となり、昭和12年(1937)には、船橋町、八栄村、法典村、塚田村と共に船橋市を組織し、千葉県船橋市二子となりました。そして昭和15年(1940)の町名設定で船橋市二子町となり、昭和42年(1967)の新住居表示で、総武線の北側地区は東船橋1,2丁目、南側の低地は二子町となり現在にいたっています。
2. 二子の人口
二子の面積は、昭和45年(1970)の調査で、0. 595km²で、昭和63年(1988)では、0. 554km²となっています。住居表示で変わったのでしょう。天明4年(1784)37戸、安政2年(1855)39戸、文久2年(1862)46戸で、台地上の東戸・海道・東前に住居がありましたが、いつのころからか国道14号線沿いに移転したといいます。
明治以後の人口が知れるのは下表の通りです。
二子はかなり古くから開かれた村と思われ、この地一帯は栗原郷に属していたと考えるむきもあります。かつては現在の東中山1・2丁目あたりが住宅地・山林となっており、二子町の低地は水田として利用されていました。明治時代の人口の推移がわからないのは残念ですが、明治27年(1894)総武鉄道(令和2年時点ではJR総武線―郷土資料館補注)が開通すると次第に人口が増加したようです。また大正4年(1915)には京成電車も開通し、大正12年(1923)の関東大震災以後、東京からの移住者も急に増加したといわれています。また昭和47年(1972)ごろからは中高層マンションもつくられるようになり、会社の家族寮・独身寮が東中山2丁目あたりに多くできました。昭和40年(1965)ごろから女性より男性の人口が多くなっているのは、男性の独身寮が多く建てられたことに起因すると思われます。
3. 二子の寺社
二子には、薬王山神将院東明寺という浄土宗の寺があります。昔は九日市浄勝寺の末寺であったといわれ、本尊は阿弥陀如来です。また薬師如来もありこの仏様は行基菩薩の作と伝え、かつては薬師堂に納められて「部田の薬師」とよばれ人々に深く信仰されていたといいます。東明寺は弘治3年(1557)に誓誉という僧が開基したと伝えられています。
もう1つ宝珠山多聞寺という日蓮宗の寺があります。永仁6年(1298)日蓮の弟子の九老僧の1人である日伝上人に開基されたと伝えられています。本尊は南無妙法蓮華経の題目を刻んだ木塔・釈迦如来・多宝如来・日蓮上人像・妙見菩薩像です。昔は松戸市にある本土寺の末寺だったといいます。多聞寺の代表的な行事は、毎年土用の丑の日に行われるホーロク灸で、人々はホーロクを頭にかぶり、僧がその上からお灸をすえるのだそうです。頭痛や子供のカンの虫封じに効くのだそうです。境内には毘紗門堂があり、ここに安置された毘紗門像は多聞寺を開いた日伝上人の作と伝えています。
二子の鎮守は羽黒神社で祭神は倉稲魂命です。地元ではこれを「権現様」とよんでいます。羽黒山参詣の講を組んだ人々によってつくられたと考えられています。境内には摩利支天社・王子社などが合祀されていますが、昔は村の各地に散在していたのだそうです。10月9日には例祭、11月下旬には新嘗祭が行われます。
4. 二子の文化財
二子では原始古代の遺跡はまだ発見されていませんが、本郷に連なる北部の台地上には奈良平安時代の遺物が出土した本郷台遺跡がありますので、遺跡が存在する可能性は充分あります。
中世に関するものは、貞治4年(1365)銘の題目板碑、文明6年(1474)銘の他5面の板碑が発見されており、中世にはすでに住居が存在していたと考えられます。
江戸時代以後の民間信仰にかかわる石碑では、正徳2年(1712)の庚申塔、寛政4年(1792)・寛政9年(1797)の題目塔、元治2年(1865)の無縁塔、享保6年(1721)の観音講碑、明治24年(1891)の摩利支天碑、明治24年(1891)の妙見尊、昭和13年(1938)の浅間神社、宝暦12年(1762)の水神、明治24年(1891)の天神、明治24年(1891)の熊野権現、天保6年(1835)の妙護明神などが主なものです。
5. 二子の旧家
二子の旧家は、国道14号道ぞいの字大境・大溜下・茶ノ木・国道上あたりの低地にありますが、もとは字東戸・海道・東前にあったのが移ったといわれています。旧家の姓は、石井・高橋・梨元・中島・藤田・鈴木姓が多いようです。ちなみに江戸時代名主をつとめた家は石井・高橋家だそうです。
(参考文献)
千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年
葛飾誌 成瀬恒吉 昭和63年