39 寺内(葛飾)

※ 初出:『資料館だより』第50号(平成2年5月15日発行)
 
1. 寺内のおいたち
 下総国葛飾郡寺内村は、標高15~21m程の台地と1~2mの沖積地からなっています。北は若宮村(現市川市)・古作村、東は印内村、西は二俣村(現市川市)、西は本郷村にかこまれています。
 寺内村の形は、北部の台地部と南部の低地部を小さな水田(小字の谷田)で結ばれ、あたかも村が2つに分けられたような領域をもっています。これは台地に住みついた人が、小さな水路ぞいに開拓し、東京湾岸の低地に進出してここを水田としたためこのような形の村となったと思われます。
 寺内の地名の起こりについて、高橋源一郎氏は船橋市史前篇に、寺内という地名は諸国にある。この名は寺の地中・領内と同じ意味で、院内とも同じで、何か大きな寺があり、そこに属していてこうよばれたのではないだろうかといった意味のことを書いていますが、この地に大きな寺があったという話はありません。
 寺内は、古代は栗原郷の一部と考えられ、中世には小栗原・本郷・二子と共に千葉氏の領地となったとされ、寺内妙見社はそのなごりであると考えられています。
 江戸時代はじめは、尾張犬山城主となった成瀬正成の支配を受け、寛永15年(1638)以後は江戸幕府直轄領となり幕末まで代官支配地でした。江戸時代は下総国葛飾郡寺内村とよばれ、村高は元禄のころ251石余、幕末には253石1升8合であったといいます。
 明治2年(1869)知県事佐々布貞之丞の支配をうけのち葛飾県となり、明治4年(1871)に印旛県となり、明治6年(1873)千葉県12大区5小区に属し、明治11年(1878)郡区町村編成法で二子・西海神・本郷・山野・印内・寺内の6ヶ村で村連合を組織、明治17年(1884)には戸長役場所轄区域更定で古作・小栗原を加えて8村がまとまり、戸長役場が二子におかれました。
 そして明治22年(1889)にはこれら8村がまとまり千葉県東葛飾郡葛飾村を組織し、この地は葛飾村寺内となりました。昭和6年(1931)には葛飾村は町制を施行し、葛飾町寺内となります。
 昭和12年(1937)には、船橋町、八栄村、法典村、塚田村と共に船橋市を組織し、この地は千葉県船橋市寺内となり、昭和15年(1940)の町名設定で葛飾町1・2丁目となり寺内の地名はなくなりました。
 昭和42年(1967)には新住居表示が行われ、この地の大半は西船7丁目・葛飾町となりました。ちなみにJR総武線西船橋駅南側は葛飾町・北側は西船7丁目となっています。
 
2. 寺内の人口
 寺内の面積は、昭和45年(1970)の調査で西船7丁目と葛飾町を加えて0. 264km²となっています。天明4年(1784)41戸、安政2年(1855)40戸、文久2年(1862)40戸で、字古作道・仲ノ町、谷田あたりが住居地であったようです。
 明治以後で人口の知れるのは下表の通りです。

 寺内は古くから開かれた村と考えられ、この地域一帯は栗原郷に属していたと思われます。
 明治時代の人口の推移がわからないのは残念ですが、大正から昭和のはじめにかけて家の数も人口も少しずつ増加の傾向を示しています。京成電車葛飾駅(現京成西船駅)の開業による影響と思われます。昭和33年(1958)に総武線西船橋駅が開業し、まもなく駅の南側の葛飾田圃といわれた水田地帯が埋められ、しばらく放置されたままとなっていましたが、現在はビルや工場、駐車場に利用されています。一方本村にあたる西船7丁目は西船橋駅・京成西船駅に近いため畑地や水田であったところは住宅地に変わりました。しかしこの地には大きなビルが建つことなく、所々にむかしの面影がのこっています。
 
3. 寺内の寺社
 寺内の寺は、海見山常楽寺で新義真言宗です。もとは古作の明王院の末寺で真言宗豊山派でしたが、昭和24年(1949)に宗教法人として独立したさいに改宗したのだそうです。創立年代は記録がなくはっきりわかりませんが、延宝8年(1680)に大阿闍梨の長秀という僧が開基したと伝えています。しかし村の創立のいきさつ、境内から延慶3年(1310)の板碑が発見されているので、さらに創立年代はさかのぼるかも知れません。本尊は阿弥陀如来です。
 寺内の鎮守は妙見神社で、中世に下総を支配した豪族千葉氏にかかわる神社であると思われます。祭神は天之御中主神とされ、開運・子孫繁栄に霊験があると昔からいわれています。毎年10月9日に例祭・11月下旬には新嘗祭が行われています。境内には、船橋市指定天然記念物であった「クロマツ」がそびえていましたが、昭和52年(1977)に枯死し残念ながら切り倒されました。今ではその2代目として新しくクロマツが植えられ育ちつつあります。
 
4. 寺内の文化財
 寺内では、まだ原始古代の遺跡は発見されていませんが、となりの印内には奈良平安時代の大きな集落である印内台遺跡が存在し、寺内という地名から古代寺院の存在、谷津を見下ろす東側に開けた台地の存在などを考えますと遺跡の存在は充分想像できます。
 中世のものは常楽寺境内から出土したといわれる永生9年(1512)銘の板碑・西ヶ崎墓地から出土した貞治4年(1365)銘他3面の板碑があります。また妙見神社が千葉氏と関係すると考えられているのでこれに関係する遺跡の存在は充分に考えられます。
 江戸時代以後の民間信仰にかかわる石碑は、享保17年(1732)・宝暦7年(1757)・文化4年(1807)銘の庚申塔、享保7年(1722)銘の廻国塔、享保18年(1733)銘の二十三夜塔、安政5年(1858)銘の地蔵、安政5年(1858)の疱瘡神、明治8年(1875)銘の天神、明治27年(1894)銘の古峰講碑、昭和51年(1976)銘の三界万霊塔などが主なものです。

庚申塔群

5. 寺内の旧家
 寺内の旧家は、寺内妙見神社近くの字古作道・谷田、常楽寺近くの字島井などに多く見られ、国道14号線沿いの字島井には明治~大正頃に住宅や商家ができたといいます。また総武線の線路あたりから南の低地は葛飾田圃とよばれる水田地帯でした。
 寺内の旧家の姓は、石井・大久保・川野辺・田久保・高中・成島・相川・峯川などが多く、ちなみに江戸時代村役人をつとめたのは成島・石井・相川家であったそうです。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年
 葛飾誌 成瀬恒吉 昭和63年