1. 山野のおいたち
下総国葛飾郡山野村は、標高10~16m程の台地と1~5m程の低地とからなっています。北と西は印内村、東と南は西海神村にかこまれています。
山野の地名の起こりについては明らかでありませんが、山野という地名は全国各地にあります。
中世のころ山野は栗原郷に属し、千葉氏の支配を受けていたと思われます。
江戸時代のはじめは、尾張犬山城主となった成瀬正成の支配をうけ、寛永15年(1638)以後は幕府直轄領となり、代官支配地として幕末まで続きました。村高は元禄15年(1702)の検地で244石8斗2升6合、幕末には261石8斗3升6合であったそうです。
明治2年(1869)知県事佐々布貞之丞の支配をうけ、のち葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)には印旛県となり、明治6年(1873)千葉県第12大区5小区に属し、明治11年(1878)郡区町村編成法で二子・西海神・本郷・山野・印内・寺内の6村で村連合を組織、明治17年(1884)には戸長役場所轄区域更定で小栗原、古作を加えた8村がまとまりました。そして明治22年(1889)には、千葉県東葛飾郡葛飾村が組織され、この地は葛飾村山野となります。
昭和6年(1931)葛飾村は町制を施行し、この地は葛飾町山野となり、昭和12年(1937)には、船橋町、八栄村、法典村、塚田村と共に船橋市となり、この地は千葉県船橋市山野となりました。そして昭和15年(1940)の町名設定で船橋市印内町となり、昭和41年(1966)の新住居表示で、北側は西船1・2丁目、南側は山野町となり現在にいたっています。
2. 山野の人口
山野の面積は、昭和45年(1970)の調査で山野町・西船1・2丁目をあわせて0. 688km²となっています。元禄15年(1702)31戸、天明4年(1794)55戸、安政2年(1855)60戸、文久元年(1861)62戸で字腰巻・山ノ海道・花輪などの台地突端部、押堀・堺海道などの台地上に旧家を多く見ることができます。
明治以後で人口の知れるのは下表の通りです。
山野は、かなり古くから開かれた村と考えられ、この地一帯は下総国栗原郷にあたると思われます。
明治・大正の人口の推移がわからないのは残念ですが、大正から昭和の初年ごろ次第に人口が増加し、昭和33年(1958)に西船橋駅が開業するとこのあたり一帯は各企業の社員寮がつくられはじめ、昭和50年(1975)ごろから中高層マンションが多くつくられるようになりました。
3. 山野の寺社
山野の寺は真言宗豊山派の山野山正延寺です。この寺は山野にあった正覚寺と延命院という2つの寺が明治41年(1908)に合併し両寺の頭文字をとって正延寺としたのだそうです。本尊は大日如来でもとは正覚寺の本尊であったといわれています。なお正延寺は延命院のあったところにつくられ、境内には名主の青山勘右衛門が宝永3年(1706)に創建したという「天の島弁財天」(折戸の弁天様ともいう)、新四国八十八ヶ所の「お砂踏み参拝所」などがあります。延命院の本尊であった「地蔵尊」もこの寺に納められています。
正延寺 本堂
山野の鎮守は浅間神社です。船橋では「東の砂山浅間(宮本)、西の山野浅間」とよばれる位有名な浅間神社です。祭神は木花開耶姫命で、毎年2月1日におびしゃ、7月1日に山開き、10月19・20日に例祭が行われます。特に7月と10月の行事の日には参道に露店が沢山でて参拝客で大にぎわいとなります。
山野浅間神社
このほかに元禄15年(1702)の検地帳に「妙見社」があったと記録されていますが、今でははっきり知ることができません。
4. 山野の文化財
山野の原始古代の遺跡は、印内台遺跡の連続する集落跡が続き、古墳時代から奈良平安時代の遺物が多数発見されています。その他にも、立地の状態から遺跡の存在する可能性は充分にあります。山野古墳と呼ばれる塚が民家のなかに1基存在しますが、これも明らかではありません。
正延寺の本尊大日如来は、近年の調査の結果平安時代の作であることがわかり、船橋市指定文化財になっています。
江戸時代以後の民間信仰にかかわる石碑は、宝暦3年(1753)・享和元年(1801)銘の庚申塔、寛延3年(1750)・昭和49年(1974)銘の三界万霊塔、安永5年(1776)銘の廻国塔、嘉永6年(1853)・元治2年(1865)・明治9年(1876)・明治35年(1902)銘の馬頭観音、明治6年(1769)・寛政元年(1789)・慶応2年(1866)銘の刻経塔、享和3年(1718)・寛延元年(1748)・文化6年(1809)銘の十九夜塔、天保6年(1835)・大正12年(1923)・昭和6年(1931)銘の弘法大師供養塔、明治41年(1908)銘の稲荷、明治9年(1876)銘の天神などが主なものです。
正延寺 十九夜塔
5. 山野の旧家
山野の旧家は、台地の南端部及びその下の低地の字境海道・竹ノ内・押堀・花輪・腰巻・山の海道などに多くみられ、国道14号線ぞいの字中台・前耕地は大正から昭和にかけて人々が移住してきたところといわれています。まだ字蛇沼・浅間谷・浅間作は湿田で、古作・亀井・川後作・押堀・浜道・見附田・西ノ埜は東京湾に連なる低地でした。
昭和12年(1937)船橋市市会議員選挙人名簿によると、石井・橋本・加藤・鶴岡・小管・青山・三須・平野・鈴木姓が多くみられます。ちなみに江戸時代の村役人は鶴岡家と青山家であったそうです。
(参考文献)
千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年
葛飾誌 成瀬恒吉 昭和63年