42 古作

※ 初出:『資料館だより』第53号(平成3年5月15日発行)
 
1. 古作のおいたち
 下総国葛飾郡古作村は、標高15~22m程の台地と、8~10mの谷津(沖積地)からなっています。北は上山新田、東は行田新田・印内村、南は寺内村、西は若宮村(現市川市)にかこまれています。
 古作村の西は真間川水系の大柏川の大きな沖積地、東は上山新田に水源をもつ小さな沖積地(葛飾川)にはさまれ、北の奥地は下総台地の幹部に連なるところに立地した地形です。古作とはどうしてよばれたのかははっきりわかりませんが、東側の葛飾川の小谷(こさく)がいつのころからか古作となったのではないかと考えるむきもあります。
 古作は、古代は栗原郷の一部と考えられ、中世は千葉氏とその一党に関係する土地であったと思われます。
 江戸時代のはじめは、尾張犬山城主となった成瀬正成の支配をうけ、寛永15年(1638)以後は江戸幕府の直轄領となり、幕末まで代官支配地でした。村高は、明暦2年(1658)123石2斗5升4合、元禄15年(1702)123石1斗6升8合、慶応3年(1867)137石9斗9合であり、14石あまり増加したのは現在の中山競馬場周辺の山林原野を畑地として開墾し検地を受けたためと考えられます。
 明治2年(1869)知県事佐々布貞之丞の支配をうけ、のち葛飾県となり、明治4年(1871)には印旛県となり、明治6年(1873)千葉県12大区5小区に属し、明治11年(1878)郡区町村編成法で中山村・若宮村(現市川市)と村連合を組織、明治17年(1884)には戸長役場所轄区域更定で8村がまとまり、二子村に戸長役場が置かれました。
 そして明治22年(1889)には二子・西海神・本郷・山野・印内・寺内・小栗原・古作の8村で千葉県東葛飾郡葛飾村を組織、この地は葛飾村古作となります。昭和6年(1931)には葛飾村が町制を施行し、葛飾町古作となります。
 昭和12年(1937)には、船橋町・八栄村・法典村・塚田村・葛飾村が合併し、船橋市が組織、この地は千葉県船橋市古作となり、昭和15年(1940)の町名設定で船橋市古作町となります。
 昭和42年(1967)には、周辺の新住居表示により、一部が印内2丁目・西船7丁目に編入され、平成元年(1989)の新住居表示で、古作1・2・3丁目・古作町とされ、平成2年(1990)には古作町が古作4丁目となり、現在にいたっております。
 
2. 古作の人口
 古作の面積は、昭和45年(1970)の調査で、0. 766km²でしたが、平成元年(1989)の住居表示のさい古作1~3丁目・古作町を合わせると0. 871km²となっています。延宝6年(1678)20戸、元禄11年(1698)23戸、元文2年(1737)26戸、天明4年(1784)27戸、文政10年(1827)29戸、文久2年(1862)29戸で、字堀込・西海道・寺下通あたりが居住地であったようです。
 明治以後で人口の知れるのは下表の通りです。

 古作はかなり古くから開かれた村と思われ、この地域一帯は栗原郷に属していたと考えられます。明治から大正にかけての人口の推移がわからないのは残念ですが、大正から昭和のはじめにかけては、家の数も人口も少しずつ増加の傾向を示しています、昭和30年代に人口が急増するのは、中山競馬場の厩舎の従業員が移住したためと思われ、昭和53年(1978)厩舎が茨城県に移転すると世帯数も人口も減少しています。また葛飾川流域の谷津は埋め立てられ、区画整理され住宅用地となり、このあたりに住宅が建つとさらに人口・世帯数も増加することでしょう。
 
3. 古作の神社
 古作の寺は、石動山明王院で新義真言宗です。本尊は不動明王で、もとは真言宗豊山派の寺だったそうです。創立年代はわかりませんがかなりの古寺と思われます。江戸時代に著された「葛飾誌略」によると「寺の前庭に九尺四方に広がり、高さ七尺もある大きなぼたんの木がある」と記され近在でも名高い名木であったようです。

明王院門前野仏

 古作の鎮守は熊野神社で、昔はこれを三社権現と呼んでいました。祭神は家津御子神とされ、毎年1月11日におびしゃ、10月28・29日に例祭、11月末に新嘗祭が行われています。この神社は昭和49年(1974)に火災にあい、昭和52年(1977)に再建されています。境内には昔は松の大木が沢山あり、うっそうとした神社であったそうですが、現在は松の木も少なくなっています。
 また葛飾川の谷津には弁財天がまつられています。現在は住宅地のなかに移されていますが、昔はうっそうとした湧水池の中にあり、昼なおも暗いところだったそうです。葛飾地区の水田をうるおす水源地の一つであったといいます。
 
4. 古作の文化財
 古作には、有名な原始時代の遺跡古作貝塚があります。古くから考古学者の間で知られ、小規模な発掘調査が行われ、第二次世界大戦前の専門雑誌に数回報告されています。中山競馬場厩舎の移転にともなう再開発に先立って、4回発掘調査が行われ、人骨や縄文後期の土器が多数発見され、話題となりました。
 中世の遺物はまだ発見されていませんが、地域の様相を考え合わせますといずれ出てくることでしょう。
 近世以後の民間信仰にかかわる石碑は、延宝7年(1679)・寛政12年(1800)・嘉永5年(1852)の庚申塔、正徳3年(1713)の十九夜塔、明治20年(1887)の子安塔、天明2年(1782)の廻国塔、明和9年(1772)・安永8年(1779)の巡拝塔、文化5年(1808)の六地蔵、文化年中(1804~1817)・嘉永5年(1852)・万延元年(1860)・文久3年(1863)・慶応4年(1868)・明治13年(1880)・明治14年(1881)・明治16年(1883)・明治44年(1911)・明治45年(1912)・大正2年(1913)・大正5年(1916)・大正7年(1918)・大正15年(1926)・昭和6年(1931)・昭和49年(1974)・昭和52年(1977)の馬頭観音、天明2年(1782)・文化7年(1810)の出羽三山塔、明治33年(1900)の古峯講碑、天明7年(1789)の道祖神、明治13年(1880)の天神、文政3年(1820)の駒形明神などが主なものです。
 
5. 古作の旧家
 古作の旧家は、明王院近くの台地上字堀込・西海道、台地下の寺下通に多くみられます。古作の旧家の姓を、昭和12年(1937)船橋市会議員選挙人名簿を見ると、大久保・三橋・加藤・石井姓が多くみられます。ちなみに江戸時代村役人を勤めたのは加藤・大久保家であったといいます。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年
 葛飾誌 成瀬恒吉 昭和63年