44 海神

※ 初出:『資料館だより』第55号(平成3年12月15日発行)
 
1. 海神のおいたち
 下総国葛飾郡海神村は、標高0~2m程度の低地、10~20m程度の台地からなっています。西は西海神村、北と東は九日市村、南は東京湾にかこまれています。
 海神の地名の起こりは、「意富比神社御鎮座伝記」によると、日本武尊が海神をこの地にまつったので、この地名となったという意味のことが書かれています。
 古代の海神村については、はっきりわかりませんが、夏見(船橋)御厨の一部であったと考えるむきもあります。
 中世は、九日市・五日市を結ぶ上総往還があり、この地は船橋海神と呼ばれたようです。
 江戸時代には、下総国葛飾郡船橋海神村(または海神村)とよばれ、代官支配地となり、独立しましたが、実際には九日市村と一体となっていたようです。村高は元禄14年(1701)の検地で205石6斗2升1合あったようですが、慶応3年(1867)の検地帳では、九日市と海神を合わせて、760石7斗3升余が代官支配地、10石が浄勝寺領となっています。
 明治元年(1868)知県事佐々布貞之丞の支配をうけ、のち葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)印旛県となり、明治6年(1873)千葉県12大区3小区に属し、明治11年(1878)郡区町村編成法で、五日市・九日市・海神がまとまり、九日市に戸長役場がおかれました。明治22年(1889)には五日市・九日市・海神がまとまり、この地は千葉県東葛飾郡船橋町海神となりました。
 昭和12年(1937)には、船橋町・葛飾町・法典町・塚田村・八栄村がまとまり、千葉県船橋市が組織されると、この地は船橋市海神となり、昭和15年(1940)の町名設定で船橋市海神町2丁目~5丁目となります。そして昭和41年(1966)には海神1~3丁目・海神町となり、昭和42年(1967)以後海神1~3丁目となり、字新浜の埋立地(海神町2・3丁目に編入)も加わりました。新住居表示によって改編がなされたことで、昔の海神村と今の海神の区画とは大きくちがっています。

西向地蔵

2. 海神の人口
 海神の面積は、昭和45年(1970)の調査で、海神1~3丁目をあわせて0. 651km²となっています。
 江戸時代にはどれくらいの人口があったのかはわかりません。
 明治以後で人口の知れるのは下表のとおりです。

 海神は、上総往還にそった村で、かなり古くから開かれた村と考えられます。明治・大正時代の人口の推移がわからないのは残念ですが、大正から昭和初年頃にかけて人口が次第に増加し、西海神の海神山とよばれる高台には、軍人の邸宅がつくられ、これにあおられるかのごとく住宅が増えたのでしょう。
 現在でも、当時のふんいきをかもし出す風景を、ところどころで見ることができます。
 
3. 海神の寺社
 海神の寺は、将軍山地蔵院といい真言宗豊山派です。寺伝によると天正3年(1575)長蓮法印勝誉という僧が開基したと伝えています。本尊は将軍地蔵菩薩で秘仏です。また念仏堂があり、ここには阿弥陀如来が安置され、今でも念仏講が行われています。境内には戊辰戦争で死亡した官軍・幕府脱走兵の墓、海神の学者御代川広宥の墓などがあります。平将門伝説にまつわる天摩山善光寺があったといわれていますが、今は小字で善光寺といわれる地域があるのみです。
 海神の鎮守は入日神社です。地元では神明とよび、祭神は天照大神と日本武尊とされています。入日神社の地は、日本武尊が上陸したところとされています。稲荷神社は、海神村の名主彦左衛門家の屋敷神であったものを、地元の漁師がゆずりうけ、現在地に移したと伝えています。祭神は宇賀魂神・稚産霊神・大己貴神とされています。今はありませんが、天沼に八幡大明神がまつられ天沼に開墾に入った人々の氏神であったといわれています。また旧家には必ずといってよいほど稲荷の屋敷がまつられています。

稲荷神社

4. 海神の文化財
 海神の台地は、大正~昭和にかけて住宅地として開発されたこともあり、この地域での発掘調査はまだ行われていません。しかし昭和16年(1941)ごろ字阿宝塚にあった民家で防空壕を掘ったところ古墳時代中期和泉式の土師器が発見されました。これはこの時代の集落跡の存在を暗示しています。
 中世・古代については断片的な記録や伝説があるだけでまだ明確に知ることができません。
 近世以後の民間信仰にかかわる石碑は、寛延2年(1749)の庚申塔、宝永元年(1704)・享保17年(1732)の十九夜塔、享保5年(1720)の三界万霊塔―市内最古―、正徳5年(1715)の廻国塔、弘化3年(1846)の如意輪観音、宝永6年(1709)・享保8年(1723)の地蔵、享保4年(1719)の六地蔵、文化2年(1805)の不動明王、嘉永6年(1853)の馬頭観音、安永9年(1780)の水神、文政11年(1828)の妙正明神、天保10年(1839)・大正10年(1921)・大正13年(1924)の稲荷、昭和5年(1930)の天神などが主なものです。
 
5. 海神の旧家
 海神は、昔から上組・中組・下組に分かれており、これら組単位で各種年中行事を行っていたといいます。昭和12年(1937)の船橋市議会議員選挙人名簿によると、上組は金子・竹内・植草・矢作・相川・御代川、中組は石井・堀江・金子・吉岡・竹内・中村・古宮・青木・御代川、下組は石井・伊東・長谷川・堀江・大崎・渡辺・滝口・相川・三橋姓が比較的多く見られます。ちなみに海神村の村役人は、御代川家、滝口家がつとめていたそうです。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 船橋町誌 千葉県東葛飾郡船橋町 昭和12年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年