45 九日市(本町・湊町)

※ 初出:『資料館だより』第56号(平成4年5月15日発行)
 
1. 九日市のおいたち
 下総国葛飾郡九日市村は、東京湾に注ぐ海老川西岸にある村です。標高0~10mの低地と、17m程度の台地の一部からなっています。
 北は西夏見村・後貝塚村・前貝塚村・行田新田、東は五日市村・東夏見村、西は海神村、南は東京湾に囲まれた古村です。
 中世の頃は伊勢神宮の荘園である夏見御厨の一部と考えられ、吾妻鏡文治2年(1186)の条に「下総国院御領船橋御厨」、建長3年(1192)神宮雑書伊勢大神宮神領注文に「下総国夏見御厨、保延4年(1138)建」といった記事が見られます。また船橋文書(船橋大神宮旧蔵)には、応長元年(1311)の船橋御厨六ヶ郷田数の事という文書には、「東船橋、西船橋、湊郷......」などと地名があらわれ、この西船橋、湊郷が九日市にあたるとも考えられます。室町時代になると六斎市が開かれたと考えられ、九日市、五日市、といった地名となったのではないでしょうか。
 江戸時代には、下総国葛飾郡九日市村となり、天領(幕府直轄領)として代官の支配をうけ幕末まで続きました。江戸時代初期の村高は不明ですが、元禄14年(1701)1884石6斗4升9合、天保5年(1834)では船橋村として2076石4斗2升1合と記され、慶応3年(1867)では、船橋村として760石7斗3升1合、改増21石9斗余、浄勝寺領10石、九日市海神新田338石9斗6升9合となっており、どうやら天保の頃から九日市と海神は一緒の村として考えられたようです。
 明治元年(1868)には、知県事佐々布貞之丞の支配、明治2年(1869)葛飾県、明治4年(1871)印旛県に属します。明治6年(1873)千葉県12大区3小区、明治8年(1875)の郡区改正で千葉県東葛飾郡船橋九日市となり、明治11年(1878)には、郡区町村編成法で五日市・九日市・海神がまとまり、明治17年(1884)戸長役場所轄区域更定で船橋九日市・海神が連合し戸長役場が九日市におかれました。そして明治22年(1889)には五日市・九日市・海神がまとまり、千葉県東葛飾郡船橋町九日市となりました。
 昭和12年(1937)には、船橋町・葛飾町・法典町・塚田村・八栄村がまとまり、千葉県船橋市となり、船橋市九日市となります。そして昭和15年(1940)の新町名の設定で九日市は本町1~5丁目、湊町1~4丁目となります。
 昭和41年(1966)に湊町1~3丁目・南本町、昭和45年(1970)には本町1~7丁目、昭和46年(1971)には北本町1・2丁目、昭和49年(1974)には埋立地に日の出1・2丁目・栄町1・2丁目がつくられ現在にいたっています。
 なお、江戸時代の九日市村は、現在では本町・湊町・南本町・北本町となっていますが、海神と入り組み部分が整理されており、昔の村境・面積などわかりにくくなっています。
 
2. 九日市の人口
 九日市の面積は、昭和45年(1970)の調査で、湊町・本町・南本町・北本町を合わせて2. 749km²です。寛政5年(1793)には478軒、2120人であったそうです。明治以降で人口の推移の知れるのは下表の通りです。

 九日市の江戸時代は、現在の本町通り両側が通町とよばれ宿屋や商店が軒を連ね、宿場町としてにぎわっていました。また南側の海岸線は漁師町とよばれ漁民が多く住み、北側の低地は水田のひろがる農業地帯でした。明治27年(1894)に総武線が開通し、船橋駅が開業します。大正~昭和初年頃になると総武線線路の南側の字芦田・道祖神前、後耕地、五反田などの水田が埋められ、住宅地となり、移住者も増えました。そして第二次世界大戦後の昭和25年(1950)ごろから、船橋駅北口の水田も埋められ住宅地になり、さらに海岸も埋立が進み市街地が拡大します。
 九日市には、市役所をはじめとする公共施設、大型店舗、金融機関などが沢山つくられており、船橋市の行政・経済の中心地的役割をになっています。
 
3. 九日市の寺社
 九日市は寺社の多いところとして知られています。漁師町には寺町とよばれるところがあり、そこには浄勝寺・専修院・最勝院・光樹院(以上浄土宗)、覚王寺・円蔵院・養性寺・不動院・長栄寺(以上真言宗)、行法寺(日蓮宗)があったといわれ、今では廃寺となったものもありますが、地区内を歩きますとまだ多くの寺を見ることができます。神社も小規模なものが各地で見られ、主なものは稲荷神社。東照宮、猿田彦神社、厳島神社、道祖神社などです。また本町通りにある大店や漁師町の網元の敷地内には稲荷神社などが屋敷神としてまつられています。
<浄勝寺>
 西光山光樹院浄勝寺といい浄土宗の寺で、末寺を4つもち中本寺の格が与えられたといいます。本尊は阿弥陀如来です。明応5年(1496)頼誉周公の開基といわれ、江戸時代には幕府から10石の寺領が与えられていました。昔は毎年11月に十夜法要が行われ、大変なにぎわいであったといいます。境内墓地には、戊辰戦争で戦死した官軍尾州藩士3名の墓石があります。
<専修院>
 浄光山専修院といい浄土宗の寺です。かつては浄勝寺の末寺だったそうです。本尊は阿弥陀如来で、永正3年(1506)専誉大超(大潮ともいう)が開基したと伝えています。
<最勝院>
 法光山最勝院といい浄土宗の寺です。かつては浄勝寺の末寺だったそうです。本尊は阿弥陀如来で、永正年間(1504~1521)に開基したと伝えています。境内には船橋で最古の年号(正中元年―1324)をもつ墓石があります。
<覚王寺>
 長命山金剛院覚王寺といい真言宗豊山派の寺です。かつては7つの末寺をもっていたといいます。本尊は大日如来で、永正年間(1504~1521)小田原北条氏の家臣林右衛門が頼善という僧となり、この寺を開基したと伝えています。昔は毎年8月に観音様の縁日があり大変にぎわったといいます。境内には竜王宮があり、この建物は嘉永3年(1850)に再建され、これには九日市出身の仏師松本良山がかかわったともいわれています。
<圓蔵院>
 海岸山圓蔵院といい真言宗豊山派の寺です。かつては覚王寺の末寺であったそうです。本尊は不動明王で、天正5年(1577)秀範が開基したと伝えています。境内にある因果地蔵は毎月23日が縁日とされ、厄よけや願かけで多くの人々が訪れます。この地蔵は永禄元年(1558)につくられたとも、海からあがったものともいわれています。
<不動院>
 海応山不動院ともいい真言宗豊山派の寺です。かつては覚王寺の末寺であったそうです。本尊は不動明王で、永徳年間(1381~1383)空尊が開基したと伝えています。江戸時代にはこの寺で天道念仏が行われており、近隣に知られていました。門前には大仏があり、毎年2月28日に行われる「大仏追善供養」は船橋市指定民俗文化財となっています。また仏師松本良山と力士荒馬吉五郎の墓もあります。

大仏追善供養

<行法寺>
 海善山行法寺といい日蓮宗の寺です。本尊は十界波租師日蓮で、文禄3年(1594)了覚坊日長が開基したと伝えています。明治5年(1872)本堂ではじめて小学校の教育が行われ、船橋の学校教育の発祥の地となっています。
<稲荷神社>御蔵稲荷
 祭神は宇賀魂神・大己貴神とされています。寛永19年(1642)のききんのあと、この地に郷倉をつくりききんに備え、稲荷神社をまつったのがはじめといわれています。いつのころからかこの神社は「オクラ稲荷」とよばれるようになりました。
<稲荷神社>御座稲荷(御殿稲荷ともいう)
 祭神は宇賀魂神・雅産霊神・大己貴神とされています。慶長のころこの地に船橋御殿が建てられ、寛文年間頃に廃止されます。徳川将軍がおとずれ御殿の中でお座りになったあたりに廃止後稲荷神社がまつられ、地元の人々はこれを「ミクラ稲荷」としたのだそうです。
<東照宮>
 祭神は徳川家康・秀忠公とされています。船橋御殿の一画にまつられています。同じ敷地内に御座稲荷がまつられています。船橋御殿の廃止後、この地をあずけられた船橋大神宮宮司富氏によって建立されたと言われています。

東照宮

<稲荷神社>袖ヶ浜稲荷
 祭神は宇賀魂神・水波之女神・市杵島姫命とされています。創立年代はわかりませんが、古くから漁師達に深く信仰されていたそうです。袖ヶ浜稲荷の名は、船橋に面する東京湾が袖ヶ浦と呼ばれていたので、袖ヶ浦の浜にある稲荷様ということでこうよばれたのでしょう。
<厳島神社>
 祭神は田心姫神・市杵島姫命・多気津姫神とされています。創立年代はわかりませんが、元来海上守護神とされているので、廻船問屋や漁民の信仰を集めたと思われます。

厳島神社

<道祖神社>
 祭神は久那戸神・道長乳歯神・八衢神とされています。創立年代はわかりませんが、船橋を守る神として、おとずれた悪神を追い払う神、宿におとずれた旅人の安全を守る神としてまつられたのでしょう。境内には三峰神社があります。祭神は大己貴神・日本武尊・少名彦命とされています。創立年代はわかりませんが、火防・盗難除けの神として船橋宿の旧家の人々の信仰を集めたのでしょう。
<稲荷神社>
 祭神は宇賀魂神・雅産霊神・大己貴神とされています。創立年代はわかりませんが、この神社の脇の道は稲荷横町とよばれ、本町通り寄りには船橋の老舗「稲荷屋」があります。この神社には掲額がなく、境内に八坂神社祭禮寄付者の芳名掲示板があるので、これを八坂神社だと思っている人が多いようです。毎年初午の日には人々がカユを作り、このカユを食べると風邪をひかないといわれています。
<猿田彦神社>
 祭神は猿田彦命とされています。創立年代はわかりません。猿田彦命は天孫降臨のさい天津神々をまちうけて案内したといわれ、道祖神とも考えられています。掲額がなく、境内に国威宣揚と刻まれた国旗掲揚の台石があったため、国威神社とか国王神社と誤解している人が多いようです。
 
4. 九日市の文化財
 九日市ではまだ原始古代の遺跡は発見されていません。
 中世にかかわるものでは、市内最古の正中元年(1324)の年号を持つ墓石が最勝院にあります。当時のものか否か意見のわかれるところですが、江戸時代の墓石の多いなかで注目すべきものの一つです。宮本西福寺の五輪塔・宝篋印塔はもと御殿地にあったという伝承もあります。また九日市の名は室町時代に盛んになった六斎市のなごりであるといわれ、江戸時代この地が、上総道、佐倉道(成田街道)、東金道(御成街道)の追分けであり、古くから物資の集散地となっており、人々の往来もかなりあったと想像できます。
 江戸時代の九日市は、宿場町、漁村・農村と三つの顔をもっており、江戸文化の流入する条件のそなわった地で、そのなごりと思われる数々の伝承や行事を見ることができます。御殿地は、徳川家の船橋御殿がおかれた場所で、その一画に東照宮があります(市指定史跡「船橋御殿跡 附 東照宮」―郷土資料館補注)。船橋浦は、漁師町・海神山谷の漁師の専有漁場で、御菜浦だったといわれています。大仏追善供養(市指定無形民俗文化財)はその象徴的なものです。また江戸に出て活躍した人も数多くあり、仏師山本良山・力士荒馬吉五郎は九日市出身です。
 明治時代になると習志野原・下志津原など千葉県に多くの演習場がつくられ、明治天皇をはじめ軍人達が沢山おとずれました。本町通りにある明治天皇船橋行在所跡(県指定史跡)は船橋宿の繁栄ぶりを示すものといえるでしょう。
 江戸時代以降で民間信仰にかかわる石碑は、元禄13年(1700)・正徳2年(1712)・安永5年(1776)・享和2年(1802)・明治15年(1882)・明治28年(1895)銘の庚申塔、元禄9年(1696)・元禄14年(1701)・享保6年(1721)・享保14年(1729)銘の念仏塔、文政8年(1825)の題目塔、嘉永5年(1852)銘の刻経塔、寛政9年(1797)銘の十九夜塔、昭和33年(1958)銘の子安塔、寛政3年(1793)銘の廻国塔、天保5年(1834)・慶応3年(1867)・昭和9年(1934)・昭和10年(1935)銘の弘法大師供養塔、天保3年(1748)銘の釈迦如来、延宝6年(1678)・昭和21年(1946)銘の阿弥陀如来、延宝6年(1678)・昭和21年(1946)銘の六地蔵、文化8年(1851)銘の愛染明王(市内唯一)、明治29年(1896)銘の富士講碑などが主なものです。
 
5. 九日市の旧家
 九日市に人々が古くから住んでいた地域は漁師町と通町です。漁師町は、船町・台町・寺町・東納谷・西納谷の5つに分けられ主に漁業関係に重視している人が多かったようです。また通町は、片町・通町・中宿・橋戸の4つに分けられ主に商人・職人が住んでいました。元禄(1688~1703)ごろには、220戸1300人位の人口をもち、寛政5年(1793)には、478戸(内175戸は漁師町)あったといいます。江戸時代以来この地に住んでいると思われる家は、漁師町では大野・滝口・宮種・内海・松本・相川・三上・三橋・岩田・大塚・小野尾・大沢などの姓をもち、通町では大崎・竹内・海老原・堀江・金子・滝口・石井・岩崎・大野・右島・川島・鈴木などの姓をもつ家であったようです。ちなみに江戸時代の村役人は大野・右島・川島家であったといいます。
 
(参考文献)
 千葉県東葛飾郡誌 千葉県東葛飾郡教育会 大正12年
 船橋町誌 千葉県東葛飾郡船橋町 昭和12年
 船橋市史史料編 1 船橋市 昭和58年
 船橋市史史料編 5 船橋市 昭和59年