古代、現在の本町通りの北側は、潟の名残の沼や湿地が広がっていた。そこを現海老川の原形の川が流れ、砂洲の東端から海に注いでいた。その川は今よりはるかに広く、水量も多かった。そこへ宮本の台地から、海神方面に行く道が通じ、川には船を並べて上に板等をわたした橋が設けられ、それがやがて地名となっていった。
これが「船橋」の語源についての通説である。ところが地名辞典類の中には「船の停泊のために桟橋を設けた所」と説くものもある。
わが船橋は両説いずれにも当てはまり、どちらとも決めがたいが、現時点では通説をやや優位としておく。
当船橋の名が初めて見える文献は、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』で、文治二年(一一八六)の記事の中に「船橋御厨(みくりや)」として記されている。
江戸時代には五日市村・九日市村・海神村に分かれていたが、三村を総称して船橋村とか船橋宿とも称した。特に交通・宿駅の分野では、対外的に「船橋村」として対処していた。その地域が明治二十二年(一八八九)に船橋町となったのである。
やがて昭和十二年(一九三七)に近隣四町村と合併して船橋市となり、昭和二十八・九年に一町一村を合併し、現在の船橋市域となった。
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