葛飾

 明治二十二年の町村制施行でできた村の内、語源がはっきりしないのが、葛飾村と法典村(次項)である。
 葛飾村は西海神・山野・印内・寺内・本郷・古作・二子・小栗原が合併して成立した。「葛飾」の村名は、本郷にある葛飾神社に因むという。
 しかし、「かつしか」は古代からの地名で、奈良正倉院文書には「葛餝郡」と記されている。この郡は千葉県、東京都、埼玉県にまたがる広い区域であった。『万葉集』では勝鹿・勝牡鹿・可豆思加・可豆思賀と様々に表記されている。当時の読みは「かづしか」であった。
 「かつしか」の語源については多くの説がある。①葛の多く生えた「葛繁」の意とする説、②「かつ」は崖、「しか」は砂洲とする説、③「かとしき(門敷)」の転化で、古利根川下流の入江の門戸の低湿地を整備して、集落が立地したことによるとする説、④「片洲処(かつすか)」で、一方が砂地の所とする説、等が有力で、他にアイヌ語説やレプチャ語説まである。諸説粉々で、当分結論は出ないだろうが、あらためて「かづしか」として検討すべきである。
 さて、当葛飾村は昭和六年に町となったが、十二年の船橋市誕生でその幕を閉じた。
 その後、十五年に旧寺内が船橋市葛飾町一・二丁目となり、現在その名残の地区が少し残っている。
 
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