五日市・九日市

 ここから江戸時代の村名に入る。最初は船橋の中核をなした五日市(いつかいち)村と九日市村である。この両村の名は、古く船橋大神宮周辺と後の御殿地辺りか寺町辺りに、五の日と九の日に市場が開かれたことから付いたものである。
 船橋は江戸時代以前から交通の要所であり、また地方としては大きな船橋大神宮があったことから、室町時代のいつからか市が立つようになったのである。この市が当初から五の日と九の日に開かれる、定期の六斎市であったかどうかは不明だが、戦国時代後期には六斎市となっていたようである。船橋大神宮旧蔵の永禄三年(一五六〇)の「万栄判物」という古文書に、「西船橋九日市場」と出ているのが最古の記録である。
 江戸時代に入り、元禄年間の記録には五日市村・九日市村となっている。ただし、当時はすでに六斎市は開かれなくなっていた。両村とも幕府代官領であったが、五日市の一部は町奉行与力給地であった。
 明治二十二年に船橋町が成立すると、五日市・九日市はそれぞれ大字となり、やがて市制後に昭和十五年の新町名設定で両者とも消滅した。五日市は宮本町一~六丁目、九日市は本町一~五丁目と湊町一~四丁目になったのだが、宮本町と本町にはそれぞれの飛地が含まれていた。
 その後、昭和四十年代に住居表示が実施されて、新町丁に変わり、五日市は現在の宮本・東船橋・市場・駿河台、九日市は本町・湊町・北本町がほぼその範囲である。
 
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