印内

 印内(いんない)は古代から続く集落と考えられる。現西船三丁目の印内台遺跡からは、奈良・平安時代の大集落址が発見されている。この遺跡は旧地籍では隣の山野村に属すが、遺構は北西側に印内へも続いている。また葛飾中学校一帯も同じ頃の集落址である。
 印内の語源についても諸説あり、また新たな考えをつけ加えることもできる。これまでの説には、①大きな寺院か倉院の敷地内の意から、②鎌倉時代に神輿(みこし)を収めた所に因む、があった。
 新たに考えられるのは、③大寺院の雑役に従事する人々の居住地に因む、④イリナイ(入内)即ち狭い場所という意味の地名の転化、⑤陰陽(おんみょう)師・声聞(しょうもん)師・遊芸者等の居住地に因む、である。
 ①③⑤は同類であるが、①は寺院・倉院が印内にあった場合で、③は大きな寺院は隣の寺内にあったと想定している。②はほとんど可能性がない。④は具体的にどの場所をさすのか、現時点では未詳である。⑤は近年の中世史研究者の新説である。
 私見では①③⑤の可能性が高いと考えるが、①の場合は木戸内と殿山という二つの字(あざ)の検討が課題である。③の場合は大きな寺院が寺内のどの場所にあったかが課題として残る。⑤は魅力的な説だが、まだ当地の印内に当てはめるには傍証資料が足りない。
 いずれにしても印内は由緒深げな地名で、今後の考察がまたれる存在である。
 明治以後は、明治二十二年に葛飾村の大字になり、昭和十五年に船橋市印内町となった。
 その後、住居表示の実施に伴い、昭和四十二年に印内一・二丁目と西船四丁目の一部に変わり、五十九年に印内町として残っていた地区の大半も印内三丁目に変わり、春日神社周辺のみが印内町として残っている。
 
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