二子の地名も全国にあり、二つ並んだ塚や前方後円墳(二子塚)に由来するものが多い。
船橋市の二子も『船橋市史前篇』以来、そう説明するのが一般的である。もっとも同書は、かつてあった「二子様」という小社に由来する可能性も指摘している。
しかし、二子塚説にしろ、二子様説にしろ、証拠に乏しい。当地には前方後円墳があった痕跡も伝承もないようだ。また二子様も来歴がよくわからない。つまり、現時点では当地の二子の語源は、未詳というしかないのである。
明治以後は、明治二十二年に葛飾村の大字となり、昭和十五年に船橋市二子町に変わった。
その二子町も、旧来の集落を含む総武線以北は、昭和四十二年の住居表示で、東中山一・二丁目に変わった。東中山という町名は古来の中山村(市川市中山)の東に位置すること、東中山駅があることによる。二子町の名は総武線以南の元水田の新興地に残されている。
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