当地金杉の初出文献は船橋大神宮旧蔵文書の写しに「金曽木郷」と見えるものであるが、この応長元年の記録は高根の項で記したように疑問視する見方が多い。
この文書が疑問だとすると、次ははるかに時代の下った江戸時代初期まで、確実な文献は見当たらない。ただし、当地には中世城址が残り、また室町時代の板碑も出土しているので、古くからの集落であることは確実である。
江戸時代には旗本三家の知行地に分割支配され、明治二十二年に八栄村が成立するとその大字となり、昭和十五年に船橋市金杉町に変わった。
昭和四十五年には一部が金杉台一・二丁目となり、五十七年に大半が金杉一~九丁目となって、南北の一部が金杉町のまま残っている。
金杉の語源は「すぎ」は「そぎ」が転化したといわれ、そがれたような傾斜地のことといわれている。「かな」は、①カンナ(鉋)の古語で鉋(ヤリガンナ)でそいだようなの意、②カネ(矩)の転で直角あるいは曲がったの意、等が考えられる。
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