七熊

 七熊(ななくま)は現在の東町の旧称である。歴史的に見ると米ケ崎等と同じように、平安時代末に伊勢神宮領の夏見御厨になったと想定される地区である。しかし、七熊も米ケ崎同様古文書類や遺物に乏しく、江戸時代中期になるまでの詳しい歴史は知ることができない。江戸時代中期の元禄年間(一七〇〇年頃)には旗本高林氏の知行地で、幕末には幕府代官領とされていた。
 明治二十二年に八栄村の大字となり、昭和十五年の船橋市の新町名設定で東町に変わった。改称の理由は「熊」の字が未開の土地を連想させるからであったという。「東町」の名は当時の市域では東端地区であったことから付けられた。
 七熊の語源については、『船橋市史前篇』で「七熊という名は七隈で、道路に屈曲或は行き詰りの地が多かったが為かと思われる。(中略)七は多数を示す語である。」と説かれて以来、現在でもこの説が一般的である。ただし、「くま」は奥まった谷の意で、七熊が宮本台地から見ると、左から七番目の「くま」の入口であるからとも考えられる。七熊がよそに比べて、特に屈曲や行き詰りの多かった土地とは考えられないとみる説である。
 いずれにしろ、各地の「くま」地名との比較検討が必要である。
 
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