薬園台

 江戸時代中期の八代将軍吉宗の時代には、享保改革の一環として幕府直轄の薬草園が開かれた。
 その一つに享保七年(一七二二)に開設された下総(小金野)薬園がある。幕府馬牧の一部で滝台野と称されていた原野を、幕府御医師並の丹羽正伯(にわしょうはく)と、薬種商桐山太右衛門にそれぞれ十五万坪ずつ預け、薬草園にしようというものであった。
 ただし、現時点では経営に関する資料は知られておらず、三十万坪の内でどのくらい薬草を作ったのか、あるいはどんな薬草を栽培したのか等ほとんど未詳である。享保十一年には桐山が死去し、丹羽は他に多くの仕事を抱えていたから、薬草園予定地はやがて普通の畑作農村に転換されたが、その時期についても未詳である。
 畑作農村になってからは薬園台新田、一名正伯新田と呼ばれ、明治二十二年に二宮村が成立するとその大字となり、昭和三十年に船橋市薬園台町一・二丁目に変わった。
 やがて昭和四十八年に住居表示が実施され、新京成線以南は薬円台一~五丁目に変わった。新京成線以北と南西端は薬園台町一丁目のまま残ったが、新京成線以北も六十三年に薬円台六丁目に変わり、現在は南西端一部に薬園台町一丁目がわずかに残っている。
 
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