田喜野井

 田喜野井(たきのい)は、三山と同様に旧久々田(習志野市)から入り込む谷の上流に発達した古い集落である。
 一丁目の外原遺跡は古墳時代の遺跡で、五世紀末~六世紀初め頃の小集落址が発見されている。ただし、その集落址が江戸時代の田喜野井村につながるかどうかは不明である。
 中世室町時代の遺物としては、正法寺境内から多数の板碑が出土している。
 江戸時代には地区の大半が、旗本小栗氏の知行地となり、新田分は幕府代官領とされた。
 明治二十二年に二宮村が成立すると、田喜野井はその大字となり、昭和三十年船橋市田喜野井町に変わった。
 昭和五十三年には住居表示が実施され、田喜野井一~七丁目となった。
 田喜野井は元来「たぎのい」と発音したもので、江戸時代の記録や石塔にも「ぎ」とわざわざ濁点を付けたものがある。語義については、この土地に米がよくとれる田があったので喜んで付けられたという話があるが、実際はボコボコとたぎるように水の湧く井(泉)があったために付いたと考えられる。それが地区の西側にあった底なしのように深く、豊冨に水が湧いていた「おはんが池」であったかどうかはわからない。
 
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