江戸時代には寛文年間(一六六〇年代)頃は、一時下野皆川藩領であり、続いて旗本松平氏の知行地とされたが、延宝年間に開墾された金堀台は神保新田に属し、幕府代官領であった。
明治二十二年に豊富村が成立すると、金堀はその大字となり、昭和三十年に船橋市金堀町になった。
なお、金堀は「かねほり」と読むが、これは江戸時代の記録や道標にも見える古来からの呼び方である。
金堀の語源については金(きん)を掘った所から付いたという話があり、百済敬福が下総国司であった時(奈良時代)に、金の試掘をした所というまことしやかな説もある。しかし、百済敬福は上総国司であるし、当地方から金が産出した話はない。金の字に付会した説といえよう。
金堀は簡易な製鉄の「野たたら」や、あるいは砂鉄に関係する地名かと想像されるが、現時点では未詳とした方がよいように思う。
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