大神保・神保

 大神保(おおじんぼう)も起源の古い集落である。現在知られる最古の資料は、廃寺円福寺跡から出土したと伝えられる弘安九年(一二八六)の板碑で、当時既に集落があったことを想定させる。文献に「大神保」が初めて現れるのは『浄光院文書』の「日経譲状」で、応永十七年(一四一〇)のことである。
 江戸時代初期の慶長七年(一六〇二)の検地帳には、「神保之郷」と記されている。まもなく当地は旗本大田氏の知行地とされ、幕末まで存続した。なお、大神保東から南に広がる幕府馬牧と原野は、延宝年間に開墾されて神保新田となった。
 明治二十二年には両村は豊富村の大字になり、昭和三十年に大神保は船橋市大神保町に、神保新田は船橋市神保町に変わった。
 「神保」は中世の文献にしばしばみえる名で、「臼井庄神保郷」「神保御厨」等と記されている。この郷や御厨は大神保のみではなく、小室や小野田周辺も含む地域と想定されるが、これを大穴周辺とする説もある。大神保の「大」は神保の元々の場所か、ある時代にその中心地であったために付けられたのだろうが、その年代は不詳である。
 神保の語源については、「保」が古代後期~中世の行政区画であることから、神の保、すなわち神社領のことと考えられる。しかし、伊勢神宮領(御厨)とされる以前に神保の地名があったとすると、「じんぼ(う)」は低湿地をいうこともあるとする説も可能性が出てくる。現時点では前者の説が妥当と思われるが、これまた今後の検討が必要である。
 
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