江戸時代には下総台地の多くが、幕府直轄の広大な馬の牧場とされていた。ところが明治時代に入ると、新政府は牧場の大半を畑作農村とする政策をうち出した。東京府下の失業者の救済と治安確保が狙いであった。開墾は失業者の外に一般希望者も募り、明治二年(一八六九)秋から官立民営的な方法で始められ、次々と入植者が送り込まれた。四年一月までにその数は六千三百人余りに上った。
開墾地には当初から、入植の順番と佳字を組み合わせた地名が付けられ、やがて五年十一月に正式に村名とされた。左の十三地区である。
初富 (鎌ケ谷市) 八街 (八街市)
二和 (船橋市) 九美上(くみあげ)(佐原市)
三咲 ( 〃 ) 十倉(とくら) (富里町)
豊四季(柏市) 十余一(とよいち)(白井町)
五香 (松戸市) 十余二(とよふた)(柏市)
六実 ( 〃 ) 十余三(とよみ) (成田市・大栄町・多古町)
七栄(ななえ) (富里町)
以上のように、二和・三咲は明治開墾地(当時は東京新田と呼んだ)で、二~三番目に成立した集落である。
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