開墾の成功がおぼつかない五年五月、地租改正を見越した開墾会社幹部は、土地を得るため突如会社を解散してしまった。その時点までに入植者の四分の一が退転していたが、会社がなくなるとその傾向にいっそう拍車がかかった。入植者は独立を認められたものの、与えられた土地はわずか五反五畝であった。結局は大半の入植者が開墾地を去り、わずかに残った人々と、やや後に近隣農村から移住した人々が、苦労の末に畑作農村を作り上げたのであった。
やがて、明治二十二年の町村制で、二和・三咲は八栄村の大字となり、その後昭和十五年に船橋市二和町・三咲町となった。
二和・三咲は昭和五十六~六〇年に住居表示が実施され、三咲一~九丁目、咲が丘一~四丁目、みやぎ台一~四丁目、南三咲一~四丁目、二和東一~六丁目、二和西一~六丁目となったが、三咲には旧大穴町他、咲が丘とみやぎ台の一部には旧八木が谷町、南三咲には旧金杉町他の一部が含まれている。
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