幕府の馬牧場は下総台地のあちこちに置かれ、いずれも広大なものであった。その牧場の隅に、馬数を調べたりする時の追込場として、土手で仕切って設けてあったのが馬込で、捕込(とっこめ)ともいった。
当馬込は江戸時代前期にあったもので、牧場の一部や周辺荒野が開墾されて藤原・上山・丸山等の新田村落が成立する時(一六七〇年代)に廃された。因みに新しい捕込は鎌ケ谷東方の山伏高山坊(こうざんぼう)屋敷跡といわれる場所に作られた。
以上のような経緯で馬込は移されたのだが、地名としての馬込・馬込沢は後世に残った。ただし、その古い馬込のあった場所は未詳である。普通に考えれば、字名の馬込(現馬込町内)にあったと想定されるのだが、『下野牧一件』という古文書には藤原新田地内にあったと記してあり、遺構が知られていない現時点では何ともいえない。
なお、現在の馬込町は江戸時代には上山新田の中に含まれており、法典村が船橋市となった後の昭和十五年に、独立の町名となったものである。
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