習志野原は、現船橋市東南部から習志野市北部の原野で、古くは四十里野、江戸時代には小金原や小金野と称された広大な原野の一部である。小金原は柏、松戸、鎌ケ谷、船橋、習志野等にまたがる幕府馬牧場で、その大部分は明治初年に開墾されて畑作村になるが、一部は間もなく軍用地となった。それが習志野原である。
明治六年四月、明治天皇は小金原内の大和田原で行われた近衛兵の演習を統監し、野原の幕舎で宿泊された。演習は二千八百名余の兵卒の、実戦さながらの白熱したものであったという。
天皇は五月一日に東京に帰還されたが、やがて十三日に至り、この原野を習志野の原と呼ぶべき旨が、天皇の名をもって仰せ出された。実際の発案者は宮内少輔(くないしょうゆう)という役職の吉井友実であったが、形の上では天皇命名の地名である。
習志野原は七年から民有地の買収が始まり、やがて全国に知られる演習場となっていった。
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