習志野(2)

 「習志野」のいわれについては、世上次のようなおもしろい話が伝わっている。……四月二十九日から三日間行われた近衛兵の演習は、陸軍大将西郷隆盛が統括したが、実地の指揮は陸軍少将篠原国幹がとった、豪雨をおしての演習で見せた篠原の気迫のこもった指揮ぶりはみごとで、天皇を初め見る者総てが感嘆した。地名は「篠原に習え」の意をこめて習志野と付けられた。……
 一方、「習(ならし)」は古くから武術や兵法の操連の意で使われており、軍隊の操連をする原野だから「習野」とするところを、送り仮名「し」を佳字の「志」で当て、地名にしたとする説もある。もちろん、両者の折衷説を考えることもできるが、原文献の再検討をする必要があろう。(なお他に平坦な野説もある。)
 さて、習志野原は演習場であったから、一般人家はなく町名もなかった。その後、終戦後昭和二十年秋から開拓地として解放され(翌年一部米軍に接収された)、畑地とされた。
 習志野原南端部は昭和二十九年に習志野市が誕生して、東習志野町となり、中央から北部は二宮町が船橋市に合併後の昭和三十年に習志野町一~五丁目となった。
 その後、住居表示により習志野市東習志野町は昭和四十八年に東習志野一~八丁目に変わり、船橋市側は昭和四十二年に習志野町一~三丁目が習志野台一~八丁目となり、さらに四十八年に周辺を含めて習志野台一~八丁目と西習志野一~四丁目に住居表示され、五十四年に習志野町四・五丁目が習志野一~五丁目に住居表示された。なお、一部に住居表示されていない習志野台四丁目も残っている。
 
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