リアス式海岸だった船橋

 市内のこの時代の遺跡の多くは、飯山満、二和、藤原など、谷津を見下ろす標高20~30メートルの台地上にありますが、当時は、これらの遺跡のすぐ近くまで海が迫っていました。雨や河川による浸食のため、舌のような形に削りとられた台地と、その間に複雑に入り組んだ谷津は、ちょうど今の三陸海岸のような、奥深い入江のリアス式海岸を形成していました。
 気候も次第に暖かくなり、植物相も針葉樹林からトチやナラの落葉広葉樹林となり、人々に豊かな食物を与えました。オオツノジカやナウマン象に代わって、縄文の森林を駆けめぐったのは、ニホンジカやイノシシなどでした。さらに暖かくなると、森はシイ、モチノキなどの照葉樹林となり、市域を取り巻く海には、スズキやクロダイのような暖流系の魚が繁殖したほか、イルカやクジラなども現れるようになりました。飛の台貝塚(海神4)に多く見られるハイガイは、現在では和歌山県南部などの海岸で見られるもので、当時の気温がかなり高かったことがわかります。
 また、縄文時代を語るうえで、忘れてはならないものに、貝塚があります。貝塚は、当時その辺りまで海が迫っていたことを示しており、この時代の海辺に住む人々の暮らしを教えてくれます。
 千葉県は、日本屈指の貝塚の多い県ですが、これは、当時の房総が貝の生息に適していたためでしょう。船橋市内でも、たくさんの貝塚が見つかっており、また、前貝塚町という地名も残されています。