後期の繁栄と晩期の衰退

 縄文時代後期には、東京湾の内湾沿岸では貝塚が発達し、その最盛期を迎えました。中期に引き続いて貝塚の大型化はさらに進み、直径200メートル以上にも及ぶ大貝塚も登場します。
 中期の半ば過ぎから次第に冷涼な気候となりましたが、後期に入るとこの気候が安定化します。それに伴い、森は再び木の実の豊富な落葉樹林となり、鳥や獣たちも増えたことでしょう。また、気候の冷涼化による海岸線の後退に加えて、海は遠浅となり、貝や魚の格好のすみかとなりました。海の幸と山の幸に囲まれ、生活にゆとりが生まれた縄文人たちは、それまでにも増して、豊かな固有の文化を築き上げました。
 しかし晩期になると、南関東では貝塚はほとんど見られなくなり、遺跡数も激減します。なぜあれほど栄えた縄文文化が、突然この地方から姿を消したのか―縄文時代の終えんは、悠久の時を経て、現代の私たちに大きな謎を投げかけています。いずれにしても、自然の恵みに頼る縄文社会は、それ自体の中に限界を持っていました。西日本から米作りが伝わると、長く続いた縄文時代は、弥生時代にその座を明け渡すことになります。
 市内の後期の代表的な遺跡には、宮本台遺跡(東船橋3)、古作貝塚(古作2・中山競馬場西側)があります。
 宮本台遺跡は、古くから小字名を「貝殻堀込」と呼んでいた所で、貝塚は、小竪穴に貝を放り込んだような状態の小貝塚が点在していました。一方、古作貝塚は、馬蹄形の大貝塚で、貝輪が多数入った蓋付土器が発見されています。
 

古作貝塚出土の蓋付土器

 
 両遺跡からは、多数の埋葬骨や人骨が発見され、当時の埋葬方法や、人の死に対する考え方を知るうえで、貴重な手がかりとなっています。古作貝塚からは、母子合葬の珍しい埋葬例も見つかりました(写真上)。
 

古作貝塚から発見され話題を呼んだ母子合葬と思われる人骨

 
 後期の生活は、海の幸に大きく頼っていたものと思われますが、市内の遺跡からは、中期に多数出土していた土錘がほとんど出なくなります。地形の変化に伴って漁法が変化したのでしょうが、現在までこれといった道具は見つかっていません。
 晩期の遺跡として知られているのは、金堀台貝塚(豊富町)と池谷津遺跡(小室町)ぐらいです。