古墳時代になると、大和朝廷の勢力は房総にも及ぶようになり、やがて11の国造が置かれました。当時の大和朝廷の房総半島への進出の一端を示すのが、「王賜」(「王からの賜り物」との意)と刻まれた日本最古の銘文入り鉄剣(市原市稲荷台古墳出土)です。出土した古墳は5世紀半ばのもので、被葬者は大和朝廷に仕えた武人(小豪族)と考えられています。
このころ大和朝廷は、朝鮮半島ともかかわりを持っていたようです。こうした影響は、大和から遠く離れた房総の古墳の出土品などにも残されています。
当時船橋は、知波国造か印波国造の、いずれかの支配を受けていたと考えられます。現在市内には、明らかに古墳と呼べるものは確認されていません。しかし、市内に古墳が1基もなかったとは考えられません。印内、海神、夏見の台地上には、古墳時代の集落の跡が残されており、それらの集落の代表者が死んだ場合は、古墳を作って埋葬したと思われます。古墳の痕跡を知ることのできる確かなものは、大正5年に京成電車の工事の際出土した埴輪のみです(186ページ参照)。
女性をかたどったと思われる人物埴輪(市内出土)
供物をのせる土器が変化した円筒埴輪(市内出土)