房総の古墳

 古墳の起源は、弥生時代に家長を葬った方形周溝墓とも考えられています。支配する者と支配される者とに階級が分かれる中で、首長をまつる墓へと発展したというのです。権力者たちは、自らの権威を示すために、争って古墳を築いたに違いありません。それはまた、支配される側の人々にとっては、苛酷な労働を意味していました。古墳が初めて現れたのは3世紀半ばごろですが、千葉県でも、3世紀後半から築かれるようになりました。
 古墳時代になると、大和朝廷の勢力は房総にも及ぶようになり、やがて11の国造が置かれました。当時の大和朝廷の房総半島への進出の一端を示すのが、「王賜」(「王からの賜り物」との意)と刻まれた日本最古の銘文入り鉄剣(市原市稲荷台古墳出土)です。出土した古墳は5世紀半ばのもので、被葬者は大和朝廷に仕えた武人(小豪族)と考えられています。
 このころ大和朝廷は、朝鮮半島ともかかわりを持っていたようです。こうした影響は、大和から遠く離れた房総の古墳の出土品などにも残されています。
 当時船橋は、知波国造か印波国造の、いずれかの支配を受けていたと考えられます。現在市内には、明らかに古墳と呼べるものは確認されていません。しかし、市内に古墳が1基もなかったとは考えられません。印内、海神、夏見の台地上には、古墳時代の集落の跡が残されており、それらの集落の代表者が死んだ場合は、古墳を作って埋葬したと思われます。古墳の痕跡を知ることのできる確かなものは、大正5年に京成電車の工事の際出土した埴輪のみです(186ページ参照)。
 

女性をかたどったと思われる人物埴輪(市内出土)

 

供物をのせる土器が変化した円筒埴輪(市内出土)