変わる地方制度

 中央集権を目指す改新政府は、地方の政治機構や行政区画の編成にも積極的に乗り出します。
 地方には、政治機構として国、郡、さらにその下に里(後の郷)が置かれました。国には、都から貴族が国司として交代で派遣され、国家による直接支配が進む一方、郡司には、国造や県主だった地方豪族が任命され、従来の制度とのバランスが図られました。
 古墳時代の房総は、麻の産地であったことから、「総国」(総は麻の古語)と呼ばれていたようです。改新後は上と下に分け、都に近いほうを上総国、遠いほうを下総国とし、さらに奈良時代に入ると、上総国から安房国が分離し、房総は三つの国になりました。
 
古代駅制による東海道と房総三国

 
 船橋市はこのうち下総国にあったわけですが、当時の下総は、現在の千葉県北部ばかりでなく、東京都、埼玉県、茨城県の一部を含む広大な国でした。平安時代に書かれた「倭名類聚鈔」などによると、下総は11郡(葛餝、千葉、印旛、匝瑳、海上、香取、埴生、相馬、猨島、結城、豊田)からなり、現在の市域は、葛餝郡と千葉郡にまたがっていました。
 私たちが考える経路からすると、上総と下総が入れ替わるほうが自然ですね。しかし、上総と下総が分かれたころは、太日河(現在の江戸川)は難所で、相模国(神奈川県)から船で東京湾を渡って上総に入り、下総を経て終点の常陸国府(茨城県石岡市)に至るのが正規のルートだったようです。
 また、それぞれの国には国府が置かれ、国司が執務に当たりましたが、下総国府は、お隣の市川市国府台といわれています。市川には国分寺や国分尼寺も置かれ、当時この辺りの中心地でした。