下総国分寺

 国分寺は国の財政によって建てられた官寺で、780年代にはほぼ全国的に建立されたといわれ、律令国家の絶大な力を示すかのようです。しかし、途中催促の詔も出され、この事業がいかに困難だったかを知ることができます。
 下総国の国分寺は、国府が置かれたといわれる市川市国府台にほど近い、国分台に築かれました。建物の配置は法隆寺式で、付近からは屋根瓦を焼いたと思われる窯跡も見つかっており、また、国分寺から北西に500メートルほど離れた場所には国分尼寺跡があります。下総国分寺からは、宝相華文という文様を描いた新羅系の軒先瓦が発見されました。宝相華文は、ペルシャ、インドなど西方の文化の影響を受けて中国で創作された文様で、この類の瓦は全国にもほとんど例がなく、非常に珍しいものです。
 

現在の下総国分寺。昭和53年に再建された仁王門は宝相華文の屋根瓦で葺かれ、創建当時の姿をしのばせます

 
 なお、船橋の古代寺院としては、善光寺廃寺(現在の海神小学校付近)が平安時代の末期に存在していたともいわれ、また、夏見大塚遺跡から、奈良時代のものと思われる屋根瓦がわずかに発見されています。