平安時代に書かれた『三代実録』(延喜元年・901年に成立した史書。六国史の一つ)には、この意富比神社のことと思われる「下総国意富比神」についての記事が登場します。実は、これこそ船橋について書かれた最も古い文書なのです。記事は3か所で、内容を見ますと、貞観5年(863年)に「それまで従五位下だった意富比神に正五位下を授けた」とあり、続く貞観13年には正五位上が、さらに同16年には従四位下が与えられたとあります。
奈良時代に入ると、神祇や祭祀に関する制度が整備され、神社は律令国家から手厚い保護を受けました。また、このころから神に位階を授ける道も開かれたようです。下総国の国司が朝廷から五位の位を授かっていたことは以前お話しましたが、意富比神はそれより上位の位を与えられるようになったわけで、当時重要な神社として位置付けられていたことがわかります。
現在の船橋大神宮
また、『延喜式』(延長5年・927年に完成した律令社会の諸制度を記載した書物)の神名帳に見える「葛餝郡意富比神社」も、意富比神社であると考えられています。ちなみに、『延喜式』には2861社が名を連ねており、これらは由緒ある神社として式内社と呼ばれています。