忠常の乱と房総の荒廃

 万寿5年(1028年)、安房国司の焼殺というショッキングな事件が起こりました。房総全体を巻き込んだ「平忠常の乱」の始まりです。
 平将門と同じく桓武平氏の流れをくむ忠常は、上総と下総に広大な領地を持つ私営田領主でした。将門の乱の後も、東国では中央から派遣された国司と在地の豪族たちとの間で、税の収取などをめぐり、いざこざが繰り返されていましたから、忠常の乱も、恐らくこうしたことが発端だったのでしょう。勢いを得た忠常は、瞬く間に上総、下総、安房の房総三国を支配するようになりました。朝廷は平直方率いる追討軍を派遣しましたが、鎮圧することができず、今度は源頼信に討伐を命じたところ、忠常はすぐに降参し、長元4年(1031年)、乱はあっけない幕切れを迎えました。
 この事件により、房総は亡国と化し、上総では約2万3000町あった租税田がわずか18町に激減したと伝えられています。船橋周辺も荒廃著しかったに違いありません。乱後の再開発は武士を中心に進められ、船橋ともかかわりの深い千葉氏など有力な武士が多数生まれました。彼らは、荘官などとして地域で勢力を蓄え、中世社会を生む大きな力となります。