更級日記に見る平安の房総

 平安時代の中期には、日本的な美意識に根ざした国風文化が生まれました。この時期にはかな文字が広まり、摂関家などが宮廷に送り込んだ才能豊かな女房たちによって、『源氏物語』などの後世に残る文学作品が生まれたことはよく知られていますが、『更級日記』も、この時期の女性の手によるものの一つです。
 作者の菅原孝標女は、寛仁4年(1020年)、13歳の時に上総介の任期を終えた父に伴われて上総から都まで旅をしていますが、『更級日記』の前段にはその思い出が紀行文風につづられ、当時の街道や旅の様子などを知る貴重な資料となっています。
 この作品によると、上総国府(市原市)を出発した孝標女一行は、海岸沿いに旅をして下総国に入り、現在の松戸市といわれる「まつさと」から太日川(江戸川)を渡って武蔵国へと旅を続けました。途中、「くろとの浜」に泊まったときのことを、作者は「かたつ方は広山なるところの、砂子はるばると白きに、松原しげりて、月いみじう明かきに、風の音もいみじう心ぼそし」と書いています。くろとの浜の場所には諸説ありますが、現在の津田沼、幕張辺りともいわれ、広々とした白い砂浜に松林の茂るこの辺りの海辺の様子が目に浮かびます。冒頭には「あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人…」とあり、当時この辺りは大変な田舎で、都で読まれていた物語を手に入れることも思うにまかせませんでした。
 一方、この時期、武士や富豪農民など新しい勢力が育つ中で、形式を重んずる貴族の文化とは正反対の、民衆によるバイタリティーあふれる文化が生まれ、貴族文化にも大きな影響を与えたことを忘れてはなりません。