千葉氏などの後押しで鎌倉に居を定めた頼朝は、文治元年(1185年)に平家軍を壇の浦に滅ぼし、武家勢力の頂点に立ちました。やがて頼朝は建久3年(1192年)に幕府を開き、鎌倉政権の基礎が確立しました。
この間千葉氏は、平家追討、奥州藤原氏征討の中核となって行動し、その功績によって下総国第一の豪族に成長を遂げました。常胤は下総国守護に任じられ、相馬御厨を回復したのみならず、下総各地、上総国内に所領を与えられたのです。さらには奥州・九州にも所領を得、やがてそこに一族の一部が移住しました。
常胤の子息たちは嫡男太郎胤正が千葉宗家(千葉介家)、次郎師常が下総国相馬郡、三男胤盛が武石郷(千葉市)、四郎胤信が大須賀保(香取郡大栄町)、五郎胤通が国分郷(市川市)、六郎胤頼が東庄(香取郡東庄町)を本拠とし、世に千葉六党と称されました。当時は分派した一族を宗家(惣領)が統率して事に当たる惣領制の時代でした。この常胤と子息たちの活躍した鎌倉前期は、千葉氏の全盛時代でしたが、この時期の千葉氏と船橋にかかわる記録類は知られていません。