しかし、この時期の船橋については重要な記事があります。『吾妻鏡』の文治2年3月12日の記事中に、「院御領船橋御厨」という言葉が記されているのです。船橋御厨というのは伊勢神宮の荘園であった夏見御厨(61ページ参照)の別名ですが、これが確実な文献にわが船橋の地名が最初に見える記事です(この時に船橋の地名が付いたということではありません)。また院御領というのは、後白河院領とするのが通説となっています。伊勢神宮領であった御厨が、さらに後白河法皇に寄進されていた時期のあったことを示した言葉という訳です。
船橋の地名が文献に