千葉氏と船橋市域

 千葉介家は胤正以後、当主が次々と早世して幼少の家督が続いたため、政治的地位が低下しはじめ、また鎌倉中期以後は両総の地に執権北条一族の所領がくさびのように成立し、千葉氏を牽制しました。しかし、千葉氏は三浦氏や畠山氏とは異なり、北条氏と対立して滅亡する道はたどらず、やや地盤沈下しながらも勢力を保っていました。
 そのころの船橋市と千葉氏に関する記録に『香取文書』があります。そのうちの香取神宮の造り替え(遷宮)を担当する国衙領(国司支配地)や荘園の名と領主名を記した記録に、神保郷・吉橋郷が見え、千葉介の管轄下にあった旨が書かれています。寛元元年(1243年)に、来るべき宝治3年(1249年)の遷宮の分担を記した記録です。当時の千葉介は幼少の頼胤でした。
 

鎌倉時代には、千葉氏など有力御家人が中心になって遷宮した香取神宮

 
 次に正応6年(1293年)の遷宮の記録には、神保郷の地頭として「千田尼」と書かれています。千田尼は千田荘(香取郡多古町)の領主千葉泰胤の妹で、北条時頼の後室となった女性です。
 それらの記録から、鎌倉中期ころの神保郷・吉橋郷は千葉介の管下にあったことが知られます。そこで問題となるのが神保郷と吉橋郷の範囲です。神保郷について『船橋市史前篇』は金堀・大穴・古和釜・坪井等の旧豊富村南部と想定しています。しかし『香取文書』と『中山法華経寺文書』に見える神保郷内の市域村名は、小室・大神保・車方ですから再考の余地がありそうです。吉橋郷は八千代市吉橋を中心とする一帯と考えられるので、隣接する金堀・古和釜等は吉橋郷に含まれると考えた方がよさそうです。