その争乱の一方の主役であった胤貞は、船橋市と深いつながりがあります。それは市最北部の小室が、胤貞の所領であったことを示す古文書(写)が残っていて明らかです。中山法華経寺文書の「千葉胤貞譲状」2通で、鎌倉末期元徳3年(1331年)のものです。これには胤貞が臼井庄古牟呂村の一部を、中山本妙寺(法華寺とともに法華経寺の前身)の囗祐(胤貞の養子)に譲与する旨の文言があります。
臼井庄(荘)は佐倉市西部、八千代市北部、船橋市北部にまたがる荘園と推定され、千葉氏の同族臼井氏が開発領主となって成立したものと考えられます。しかし、胤貞の時代のはるか以前に臼井氏は衰退しており、千葉氏が地頭となっていました。
その臼井庄や千田庄の一部を、中山本妙寺・法華寺の貫主の日祐に譲与するというのが先の譲状なのです。この時から本妙寺等は、胤貞流千葉氏の氏寺化したと考えられます。