神保郷の意味するもの

 南北朝時代になると、小室の名は「平(千葉)胤清寄進状」(1380年)に臼井庄神保郷小室村として見えます。胤貞・胤継に続いて、胤清が神保郷小室村一円を中山本妙寺に寄進するというものです。ここでは前号で紹介した神保郷が、臼井庄内の郷として書かれています。
 そもそも神保郷の名は、香取神宮の造営所役(造営のときの役割分担を決めたもの)には国衙領(国司の支配地)の神保郷として見え、一方では鎌倉時代の伊勢神宮領を記した『神鳳鈔』等では萱田神保御厨(伊勢神宮の領地)として記されています。この一見矛盾した内容の解釈については、香取神宮遷宮の際の費用の負担率を上げるために、一時的に国衙領とする場合もあるという解釈が、近年の研究によって出されています。
 さらに、胤清寄進状に見られる神保郷は、すでに伊勢神宮との関係は断ち切られていた可能性が高いと考えられます。
 以上のように市北部地方は臼井荘の一部であった時期、萱田神保御厨であった時期、神保郷と記されて千葉胤貞流の所領であった時期に分けることができる訳です。神保郷と胤貞流の関係史料は室町時代前期にもありますので、次項でさらに取り上げます。