南北朝の対立は明徳3年(1392年)に一応の終止符が打たれました。しかし、各地における動乱はその後も断続的に続きました。応永23年(1416年)には室町幕府の関東統治機関である鎌倉府で内紛が起こり(上杉褝秀の乱)、千葉介兼胤は禅秀方として戦っています。禅秀は敗死しますが、千葉氏は損失も少なく存続します。
その後康正元年(1455年)に至ると、千葉氏内部で大きな抗争が起こります。この抗争は鎌倉府の主である鎌倉公方足利氏と、京都の将軍家との対立、鎌倉府の補佐役関東管領上杉氏と鎌倉公方の反目等にからむものですが、その間の経緯は複雑なので割愛します。
千葉氏の抗争は、宗家胤直父子が上杉氏に与し、叔父馬加康胤が足利成氏に味方しているという時点で起こりました。馬加康胤は原胤房と共に千葉城を攻め、胤直父子は多胡城(香取郡多古町)等に逃走後、敗死します。
千葉介家は馬加康胤系が継承するようになりますが、上杉氏に援助されて胤直系の新たな分家(武蔵千葉氏)ができ、その後、千葉氏の勢力は衰退を余儀なくされました。